朝の光、希いと祈り
ふと、目が覚めた
何時だろう
枕元のスマートフォンを見ると、時刻は午前3時半
まだ早いか
しかしわたしはベッドから起き上がり、分厚い濃紅のドレープ地のカーテンを開ける。当然まだ陽は昇っておらず、住宅街を照らすオレンジの街灯がまだ暗い辺りに灯を切り取っているだけだ
まだ早い
イスラム教徒たちの朝の祈りが始まるのは午前4時過ぎだ
この住宅街の郊外にあるモスクから、かれらの祈りの声が聞こえてくるには、だから、まだ早い
どうしようか
やはり、見に行こうか
わたしは着替え、Tシャツの上にアウトドア用のジャケットを羽織り、カメラを準備して外出の支度を整える
イスラム教の朝の勤行は、一度この目で見てみたいと思っていたからだ
自宅を出て、ジムとプールの建物の脇にある小さな芝生の斜面を降りると、警備ゲートが見えてくる
詰所にいた制服の警備員がわたしの人影を認め、やや不審を滲ませた顔をこちらに向けてくる
無理もない
時刻が時刻なのだ
ここは華僑をはじめ、わたしたち外国人も多く居住する住宅街で、イスラム教徒でもない限りこんな早朝から出歩く人間はいない
わたしが詰所に向かってゆっくりと歩いていくと、わたしの顔を認めた警備員の顔が親しみを込めて緩み、こう話しかけてきた
ー”誰かと思えば・・・ミスターじゃないですか。おはようございます。
どうしたんです?こんなに朝早く”
すると、突然詰所の外の暗がりからも警備員がひとり音もなく現れ、驚いた
間違いない
わたしは〈早朝の不審者〉に認定され、二人の警備員に静かにマークされていたのだ
暗がりから現れた警備員も、拍子抜けしたような表情でこういった
ー”おはようございます。どうしました?こんなに朝早く?”
ここの警備員たちとは、毎日車で通勤する際にゲートで顔を合わせている
警備ゲートがあるような居住区なんて、何て大げさなとは赴任当初思っていたが、会社の方針と、やはりこの地の治安状況が著しく関係しているのだ
簡単にいうと、残念ながらインドネシア全域は他のアジアの国々と比べても治安状況が著しく悪く、特に日本人はあらゆる意味で狙われやすいのだ
そしてここの親しみやすい警備員たちの数人とは、これまで緩やかな交流があった
例えば初めて訪れた中華屋で、思いもよらず頼んだ料理の一皿の量が多かったり、辛すぎて完食できなかった場合などは、それらをテイクアウト用の容器に詰めてもらい、数本のミネラルウォーターと共に彼らに差し入れるのが習慣となっていたのだ
それはどこにも無駄がない
まだ陽が昇っていない早朝に、男だけで3人、立ち話を始めた
ー”この近くのモスクでイスラム教の朝の祈りを見てこようと思っている。できれば数葉写真も撮りたいと思っているが、それは神に祈りを捧げる彼らにとって、何か礼を逸することになるのだろうか”
そう。この国の敬虔なイスラム教徒は、ことのほか<祈り>を大事にするのだ。その回数は一日に五回
それは何者の侵害を許さない神聖な時間であり、わたしの職場の現地人の同僚たちも就業中にお祈りの時間が来ると、ある者は会社の敷地内のモスクへ行き、またある者は床に茣蓙をひき、地面に跪いて静かに祈り始めるのだ
そのような場合に彼らに話しかけることはできない
祈りが齎す一種の恍惚さを身に纏った彼らに話しかけるのは、こちらが憚れるのだ
詰め所から出てきた長身の警備員は、右手の指で自分の顎をさすりながらこういった
ー”写真を撮ることは何も問題ないでしょう。ただし念のためにフラッシュは止めておいたほうがいいかも知れません。後は・・・まぁ、ミスターは日本人だからモスクで靴を脱ぐことはもちろん、フランス人のようにスピーカーのコンセントを抜いたりはしないでしょうから大丈夫でしょう”
それを聞いて思わず苦笑した
そう。先だって首都ジャカルタのあるモスクでは、早朝の祈り声の五月蝿さに業を煮やしたあるフランス人旅行者が、モスクのスピーカーのコンセントを抜いてしまうという事件が発生した
それはこの国ではまぎれもない、〈事件〉なのだ
そして結果的に、インドネシア政府から<強制送還>を命じられて帰国させられたのだ
それは当地でも大きく報道され、同時にこのような推測を生み出した
<強制送還>の本当の理由は、そのフランス人がジャカルタに留まるということは、あるいは<命の危険>があったのではないかという推測だ
そのままこの国に留まれば、あるいは敬虔なるイスラム教徒たちにー
だからそれはインドネシア政府からの、ある種<温情判決>のような結末を迎えたのではないかというのが大方の見方であった
わたしは頷き、警備ゲートから大通りに向かおうと踵を返したら、その警備員はこう続けた
ー”もしも、モスクで何かトラブルが起こりそうになったら、すぐにここに戻って来てください。わたしたちが対応します。しかし、まぁ、そんなことは杞憂でしょうが”
わたしは彼にそうする、と答え、手を軽くあげゲートを越えてイスラム教徒たちのモスクへ向かう
インドネシア人たちの朝は早い
まだ陽も昇っていないというのに、バイクに乗ったひとびとが猛スピードで通りを駆け抜けていく
早朝から営業を始める屋台も支度を始め、大きなボウルの中からは湯気がもうもうと立ち昇り、肉や根菜類が無造作に放り込まれていく
七輪の炭火で火をおこしている屋台もある
インドネシアの焼鳥ともいうべき、サテでも焼くのだろうか
スパイスの匂いも漂ってくるが、時間が時間だ
その食欲をそそる豊かな匂いもまだ空腹には結び付かない
やがて通りの端に原色のネオンが見えてくる
一見すると、これがイスラムのモスクなのかと訝しがってしまうほどのケバケバしいネオンだ
すでにモスクの正面には、これから祈りを捧げる者たちのバイクが列をなして並び、建物の奥からはひとびとのざわめきが聞こえてくる
モスクの内部にはすでにこの近隣のイスラム教徒たちが横一列に並び、スピーカーから流れてくる大音量の(おそらく)Quran/コーランに合わせて、跪き、深く頭を垂れて祈りを捧げている
驚いたのはモスク内部では、祈りを捧げる場所として〈男と女〉が綺麗に区切られているのだ
男はモスク内部の、さらに奥に入ったガラス窓の向こうに
女はガラス窓の外側、というように
わたしは首から一眼レフを下げていたが、誰もわたしに見向きもしない
かれらは深い祈りの恍惚の中に・・・
時間にしては20分くらいだったろうか
邪魔にならないように素早くシャッターを押し、かれらの祈りが終わる前にここを去ることにする
予想していた通りに、早朝のモスクでのイスラム教徒たちの敬虔な祈りを見ても、わたしの内部では何も変化は起きなかった
もちろん、何かの変化を求めてここにこうして来たわけではない
人間が持つ所作の中でも、〈祈り〉の姿は最も美しいという記述を目にしたことがある
それは神でも、先祖でも、この世を足早に去って行ってしまった友人に対しても同じく、〈祈り〉のなかには根源的で普遍的な美しさが内在しているという
野生動物はその姿のままでも十分に美しいが、動物たちは祈ることがない
だからこそ、人間は、美しいのだ、と・・・
ハードディスクに保存していた、これまで撮影してきた写真ファイルを俯瞰していると、ひとびとが祈りを捧げている数葉の写真が出てきた
それは東欧のオーストリア・キュッツビュールの小さな古い教会であり、日本のとある墓地で撮影したものだ
これらは必ずしも、祈りの美しさを捉えた写真とはいえないのかも知れないが、しかしモノクロームの写真の中に、微かに静謐さが漂っていることは認めることができるのかも知れない
そしてー
なかにはただただ、可愛いと微笑ましくなる〈祈り〉もあるけれど
おしまい
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?