私たち人間は物事の表面的なことに意識を向けその本質を見ることが出来ないものです。 男前であるとか美人であるなど容姿にこだわり お金持ちは偉いと考え 学校の勉強が出来るなど頭が良いのが凄いこと 多くの人間がそのように考えるものです。 しかしながら容姿端麗、眉目秀麗であっても人格など内面はそうではなかったり お金を持っていることに意味があるのではなくそのお金をどのように使うかによりその価値が決まるわけであり 同じ頭が良いでも我良しの利己的でズル賢く小利口な賢さもあり
品位のひとつの表現に下品(げひん)というものがあり下品とは品格・品性に劣り卑しいこととされます。 しかしながら、恥を恥と思わない人間からすれば自分は下品であるなどという自覚はないでしょうし、そもそも下品という概念が人によって異なることでしょう。他者からそのような事を(あなたは下品だと)言われようものなら多くの人々が烈火のごとく怒るに違いありません。 職場で毎日のようにせんべいのようなものをバリバリと部屋全体に鳴り響くほど大きな音を立てながら食べる女性を見て私は息苦しくてた
相手に対する私たちのその行為は友人としては正しい、しかしながら同じ行為でも会社などで部下に対する上司としての行為であるならばそれは正しくないということがあります。 この時の両者いずれの行為もまったく同じ行為です。変わったのは私たちの立場だけです。 「友人としてそれをするのは正しい行為だが、会社で部下を導く上司としてそれをするならそれは間違った行為となる」 「生徒ならそれで良いが、立場が先生であるならそれではいけない」 善悪はその行為そのものにあるのではなくその善悪は当
以前身を置いていた前職の会社の社長が、 「ウチは大卒の事務員を雇わないようにしているのだよ。事務員は高卒の人を雇うようにしている」 そのように話されていたことを覚えています。 その理由を社長に伺いますと「大卒の事務員を採用すると『なぜ私がそのような仕事をしなければならないのか』と仕事を選び、そしてプライドが高くお茶出しの仕事でさえ嫌がり拒否することがこれまであったからだ」と話されていました。 それを聞いた当時の若かりし私は「なるほど」と思わされ納得したものです。 「
私たち人間は「他が知らないことを自分は知っている」ということを相手に伝えることで自分の立場を優位に置こうとする傾向があります。 仕事などで話をしていても「君はそんなことも知らないのか」とし、自身の知識を誇示し自己の優越感に浸り他者を見下げることにより自己の存在を示そうとする方々を散見します。 仮にそれを言われた自分がそれを知っているとしても「そうだったのですか。勉強不足で知りませんでした」と言えば相手は機嫌よく過ごし、逆に「それは私も知っています」となれば相手は不機嫌にな
現代に生きる私たち多くの親が我が子に依存しながら生きています。 子離れできず我が子に精神的依存をし、中には老後の面倒を見てもらうためにと子を自分の側に置き離そうとしないという方々も珍しくはありません。 私たち親は往々にして我が子と自分と一体化し自分の所有物とし自分の手足と同様に考え我が子を自分の思い通りに動かそうとします。 進学先、就職先、付き合う友人や恋人にまで口出しをし、それが「あなたのため」という親のわが子に対する愛と信じて疑わないものです。 しかしそれが肉体だ
「押し売り」とは一般的にそれを買う意思がない者に無理やり商品などを売りつける行為を意味します。 この押し売りの対象は商品だけでなく目に見えないものもあります。 「親切心の押し売り」 「愛情の押し売り」 など これらも立派な押し売りの対象と言われ、勿論その行為者には押し売りなどという意識はなく真の「親切心」や「愛情」からくるものであると信じて疑わないわけですが、あくまでそれは私たち当人の意識の上での話になります。 「相手は喜んでくれるだろう」 「相手は嬉しいに違い
行政における福祉に生活保護というものがあります。 これは当たり前のことでありますが仕事が出来るにも関わらずそれをせずその保護を受けることは出来ません。 預金や資産・一定基準の収入がないことは勿論のこと、車など保有していることもなく、頼る配偶者や身内もなく、更に借金の返済に追われていることもなくと、生活保護を受けるにはその他様々な制限があります。 現在では主に金銭的保護という形での福祉となっていますが本来の福祉とは相手の人間的な自負や尊厳をそこなわないように配慮するものと
酒をやめて間もなく二年になります。 これまではなんとも思わなかったものが今日、金曜の仕事終わりの夜、家に帰りホットして椅子に腰掛けたその時、キンキンに冷えた缶ビールの映像が脳裏に浮かび、そしてその味覚から喉越しまで、あのなんとも言えない感覚が蘇ってきました。 更に、冷えた缶ビールを手に持った時の冷たいあの指の感覚までも。 こうやって酒を断った人はまた飲み始めてしまうのだと。 禁酒や断酒はその人の精神次第とは言われますが、このように肉体を通じて強烈に抵抗してきます。
何かトラブルが発生した時、私たちはその対応のために何らかの行動を起こします。 その初動の動き次第でそのトラブルが大難につながるか小難で収まるかが決まり初動対応の遅れは致命的な結末につながる場合があります。 トラブルが発生した時にAの対応を取るか、又はBの対応を取るか それによりその結果の行く末を決めるものでもありますからその選択は大変重要なものとなります。 しかしながら初動対応には「何もしない」という選択肢があります。 物事にはその発生した事象によりそれに対応して動
私が過去に従事していた教育現場は公教育ではなく私塾や予備校と呼ばれる私教育でありました。 公教育と私教育のその違いについては申し上げるまでもありませんが、クライアントである親御様よりお子様をお預かりし、限られた期間内に志望校に合格させるまでお子様の学力を向上させるというのがその使命となります。 「基礎から着実に生徒さんの個々の習熟度を見ながら無理せず少しずつ」というような方針は時にそこでは適用されることはなく、目標に合わせ必要なことを限られた期間内に施し結果を出すというあ
朝の通勤時に特別支援学校の通学バスを見かけます。 停留所で待つ子供たちのその身振りや動作を見ていると彼らが知的障害を持つ子供たちであることは一目瞭然に分かりますが、それ以上に私には付き添いの母親の笑顔が印象的で目に止まります。 彼女たち母親のその笑顔に強さと美しさを感じずにはおれず、特に道路に身を乗り出し不規則に体を動かす子供さんと手をしっかりと繋ぐ母親の笑顔に「私はなんと美しいものを見ているのだろう」と毎朝のように思わされています。 会社までは片道6キロ程の道のりです
人生の終末期を迎え入退院を繰り返しそしてまた入院する親族の姿を見るにあたり周りの人間の心が見えます。 これで介護をしなくて済む、と安堵する者 病状の成り行きを心配する者 家族から離れ一人病床で過ごす日々はどんなに孤独で寂しいだろうと本人の心情を察する者 どのような言葉を表に並べてもそんな心情が様々にこちらに流れてきます。 立場によりその心情は変わることでしょう。ですから誰が良くて誰が悪いというような話ではありません。これも仕方のないことだと思います。私とて立場が変わ
私たち人間はその本能において自分の心を守ろうとする習性があります。 私たち人間は過度な期待から未来にてその反対の結果にがっかりし、落胆し自分の心を傷つけてしまうことから自分を守ろうとします。 ですから希望をしまい込み心の喜びを自ら遠ざけ悪い未来を想定しそれに耐えうる心の準備をすることがあります。 そんな時、悲観的であるとか、もっと前向きに考えろとか、そのような助言は私たち人間には届かない場合があります。 それらは助言者の親切心から出た言葉であることは理解しているのです
私たちの人間関係には適切な距離感という感覚が必要になります。 人は人との関係が深まると相手への親切心などから時に相手の奥深くの領域までその足を踏み入れてしまうことがあります。 凄く仲の良い友達が、ある出来事をきっかけに強く憎しみ合うことがありそれは同性のみならず恋人や夫婦の間でも起こりえます。 距離を詰め近づく側には悪気はないのですが、それは相手を想うが故のことであったり、時にそれは相手に対する依存心の場合もあったりその理由は様々ですが、受け手である人にはその人なりの大
先日780円のスニーカーを買いました。 前に四年ほど履き続けたスニーカーが980円でしたから今回200円の記録更新です。 別に貧乏自慢をしているわけではありませんし買うお金がないわけでもありません。 単に有名ブランドのスニーカーなど欲しくもなんともないだけです。 職場では他者のバッグを見ては「それどこのバッグ?」とブランド名を聞き、「へーっ、いいね!」と盛り上がり話に花が咲いています。 足元を見れば型にはめたように全員がナイキやニューバランスにアディダスなどの有名ス