人はなぜ「正しいこと」が理解できないのか
相手に対する私たちのその行為は友人としては正しい、しかしながら同じ行為でも会社などで部下に対する上司としての行為であるならばそれは正しくないということがあります。
この時の両者いずれの行為もまったく同じ行為です。変わったのは私たちの立場だけです。
「友人としてそれをするのは正しい行為だが、会社で部下を導く上司としてそれをするならそれは間違った行為となる」
「生徒ならそれで良いが、立場が先生であるならそれではいけない」
善悪はその行為そのものにあるのではなくその善悪は当人の立場と相関関係にあり、その行為自体が否定されるのではなく『その立場における行為』が否定されるのだということがあります。
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私たち人間はこれを理解できずその判断と評価に対して不満と負の感情を抱きます。
そして物事の善悪や正誤の基準などその判断もその立場によって変わります。
その考えや行為自体が否定されているのではなく「立場と行為」という組み合わせにおいてその考えや行為が否定されているのだということを私たちは理解する必要があるのではないでしょうか。
もし「立場と行為」という組み合わせにおいてその考えと行為が否定されることを拒絶するなら私たちはその立場に我が身を置くことは出来ません。
「先生という他者の模範となる立場にある者によるその行為」が否定されることを受け入れられず拒絶するなら私たちは先生でありつづけることは出来ないように思います。
同じく会社にて「上司という立場におけるその行為」が否定されることを受け入れられず拒絶するなら私たちは管理職であり続けることも出来ないように思います。
もし自分の価値観と判断基準を優先するなら私たちは生徒のままでいなければならず、そして部下のままでいなければなりません。その前にその立場になることも出来ず、そもそもその立場になってはならないとも思います。
考えや行為は自分の個人的主観や自分の価値観によって正当化されるのではなくその立場によって正当化されるのだということを私たちは認識する必要があるのではないでしょうか。
「それはあなたが判断し決めることではない」
「それは会社が判断し決めることだ」
これはどこの会社でもよく聞かれるセリフです。
これが理解できずに私たちは組織に属することが出来ないわけですが、私たち人間は往々にして自分を基準にした善悪と正誤を他者や組織全体に押し付けてしまうものです。
善悪や正誤とは時にその行為そのものにあるのではなく、それらは当人の立場との相関関係にあり、その行為自体が否定されるのではなく『その立場におけるその行為』が否定されるのだということについて私たちは改めてそれを認識する必要があるのだと思わされます。
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end
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