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人間の行く末と二極化

以前身を置いていた前職の会社の社長が、

「ウチは大卒の事務員を雇わないようにしているのだよ。事務員は高卒の人を雇うようにしている」

そのように話されていたことを覚えています。

その理由を社長に伺いますと「大卒の事務員を採用すると『なぜ私がそのような仕事をしなければならないのか』と仕事を選び、そしてプライドが高くお茶出しの仕事でさえ嫌がり拒否することがこれまであったからだ」と話されていました。

それを聞いた当時の若かりし私は「なるほど」と思わされ納得したものです。

「4年生大学卒の自分は短大卒や高卒より偉い」

「お茶出しは下の者がすること」

「上である自分がなぜそんな下っ端がすることをしなければならないのか」

そのような意識がおありなのだろうと当時の私は思わされたものでした。

私はその後転職し今の会社は学歴など関係のないいわゆるブルーカラーの職場環境でありますが、しかしながら以前のホワイトカラーの職場とはさほど変わらず、それどころか「こんな世界があったのか」と当初から驚きの連続でありまして今はそれに慣れたとはいえ今だにその違和感と苦しみはなくなることはありません。

「他に無関心」

「他が困っていても知らん顔」

「それは自分の仕事ではない」

「自分は悪くない」

「自分さえ良ければ良い」

そもそもそれらすら考えている気配もなく

・・・


私のような大したこともない人間がこのような事を書くのも何なのですが、これまで私はどのような人間にも少なからず「良心や罪悪感」というものがあり、それ故に人は思考せずとも自然と体が動くものだと考えてきました。

会社で上司が雑用をしていれば自分の仕事を後回しにしてでも手伝いますし、そもそも上司が掃除をしている様子を見ようものなら「そんなことは私がしますからご自身の仕事をなさってください!」とホウキと塵取りを上司から取り上げるのが人として当たり前でそれが常識というものだと考えてきました。

しかしながらそれは私の認識の誤りでありそのような人間は極めて少数であることを知ったのが大学を卒業し社会に出てからのことです。

自分が管理職となった時にそれを部下や仲間に話そうとしても彼らは嫌な顔をし、それどころか頭の古い昭和人間の老害やパワハラとされ、今やそのような上司は国の法律によって裁かれ罰せられる時代となりました。

気配りや配慮、そして目上の人を立てるというものは現代社会ではなくなりつつあり過去の遺産となりつつあるように思います。

私見としまして現代では会社である程度の出世をすることはそんなに難しいことではないように思います。このような世の中だからこそ人として当たり前のこと(配慮、気遣い、目上の人を立てること)をするという、たったそれだけで上司が人格者でありさえすれば「よく出来た人間だ」とそれを評価してくれるのですから。


これを読まれている方々の中には「なんとレベルの低い話だろう」と思われる方々もいらっしゃるかもしれません。

学生時代のクラブ活動にて先輩後輩や顧問の先生などと過ごしたあの時の規律と上下関係や助け合い、皆で協力して成し遂げるというあの世界は既に過去のものとなり、今の世では規律や礼儀、節度、気配りに配慮、助け合い、協力などそのようなものが失われつつあります。

そこにいる人間は確かに呼吸はしていますが思考は停止し、覇気はなく、生気もなく、お金、お金、モノ、モノ、と、そして娯楽に勤しみ快楽を求め過ごし、そこにいるのは生きている人間ではなく「ただそこにいるだけ」の人間。

ロボットは指示されたことに反発せずに淡々と仕事をこなしますから、これからはややこしく面倒くさい人間など雇わずにロボットなど機械を導入する企業が増えるのも必然のことでしょう。

私はそのような人間を見ながらも彼らを助けるつもりも救けるつもりもなくただ冷ややかに見つめるだけです。そもそも彼らを救ける事はできませんし人は自らが変わろうとしなければ救からないものだと思います。

ただ、なぜ現代のこの世ではそのような人間が多数を占めるのかについて考えることがあります。

他に無関心で自分さえ良ければ良いという自己中心的な心は邪な心であり愛の不足であることに疑う余地はないように思います。

しかしながらなぜそのような人間が多いのでしょうか。

これは単に多いというよりは更に増え続けているようにも見えます。

文明が発達し便利なモノが開発され人は他を頼らず何事も自分だけで個として事足り事成せるようになりました。

電気炊飯器があれば薪から火を起こし米を炊く必要はありませんしお風呂もスイッチひとつで湯が沸きます。

スマホがあれば分からないことを教えてくれるため先生や他の人に聞いて教えてもらう必要もありません。

お葬式も家族葬を行う斎場がありお金さえ出せば火葬まですべて段取り良く進めてくれるため村の協力を得て自宅で葬儀を行う必要もなく。

田んぼの稲刈りも農機具の進化により負担が軽減されていますから家族や親戚総出で作業をする必要もなく、そもそも現代ではお金さえ出せばスーパーで無洗米が買えるためお米を水で研ぐ必要すらありません。

母に食事を作ってもらわなくてもコンビニで弁当を買い電子レンジでチンすれば食べることが出来ますし、水洗トイレにウォシュレットと下水道があれば昔のように木箱に溜まった屎尿を畑に運んで埋める必要もありません。

子供は部屋に引きこもればエアコンとテレビにパソコン、スマホでインターネットでゲームやコミュニケーションも取れる環境もあり何不自由なく過ごせ、他者との会話や関わりなど他に頼らなくても個として成り立つ時代となりました。

昔の時代とは違い、現代は他者の助けを借りることなく個で成り立つことにより感謝の気持ちが薄れてきたのかもしれません。


前述のように現代では他者に対する配慮や節度、気遣いなど愛を構成するそれらの要素、そして機械に依存し他の生身の人間に依存する機会が少なくなったことにより思いやりと感謝というものが失われつつあります。

これは物質文明の進化自体が悪いのではなく、その物質文明の進化に精神文明の進化と精神性の向上が追いついておらずそのバランスの悪さによる副作用とも言えるのかもしれません。

それらの歪みから生じる「無関心」、その無関心とは愛の正反対であり、無関心とは病であり、それ(無関心)はまるで周りに伝染するウィルスでもあるかのようです。


私も偉そうなことを言えるような出来た人間ではないのですが。。


人間の行く末と二極化

生きているのではなく、
ただ呼吸だけしてそこに「いるだけ」の人間

無関心という伝染病

現代に生きる私の目の前にはそんな景色が広がっています。



・・・



end
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