![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/160891149/rectangle_large_type_2_4e72f5aafd985691877ba97d7c4f1c5a.jpg?width=1200)
配慮という愛
私たち人間は「他が知らないことを自分は知っている」ということを相手に伝えることで自分の立場を優位に置こうとする傾向があります。
仕事などで話をしていても「君はそんなことも知らないのか」とし、自身の知識を誇示し自己の優越感に浸り他者を見下げることにより自己の存在を示そうとする方々を散見します。
仮にそれを言われた自分がそれを知っているとしても「そうだったのですか。勉強不足で知りませんでした」と言えば相手は機嫌よく過ごし、逆に「それは私も知っています」となれば相手は不機嫌になり険悪な雰囲気になります。
特に劣等感に苛まれている人はこちらが話すことに対してマウントを取り上から被せてきて、「そんなことは私も知っている。では君はこれについて知っているか?」と更に上から自己の優位性を保とうと知識マウントをとってこられることがあります。
そこで劣等感に苛まれ知識の上乗せ(マウント)をしてくる相手の間違いを指摘しようものなら相手は更に不機嫌になり感情を乱し負の感情に囚われてしまうことになりこちら側が攻撃対象にされてしまうことも多々あります。
愛の種類の一つに「相手に対する配慮」というものがあります。
世間には自分は物知りであると知識マウントを取ってこられる人々がいます。そのような方々に自分の知っている正しい知識を話しても受け入れられず、それどころか嫉妬や恨みなど負の念を向けられてしまう場合も多いです。
それに対しこちらが怒りの感情から更に理を持って正論を返すと相手は更に負の感情を返してくることがあります。そうなると負の無限ループが起こりそれは行き場をなくし渦巻くこととなります。
これは知識だけでなく技能などにおいても同じく、人は自分は特別であり自分は他より優れていると自身を誇示したいと思うものでありそれにより優越感を保ちたいと思うものです。
これはいわゆる劣等感に基づくものでありますが劣等感に囚われている人間は自分が劣等感に囚われていると気づくことはありません。
その劣等感に基づき「自分は知っている」と相手との知識マウントを繰り返したり、自分は優れていると相手にそれを見せることで相手を不機嫌にすることがありお互いの対話に不和を生じさせることがあります。
「それは分かるが自分はなぜそんな相手に我慢をしなければならないのか」
多くの人々がそう思うことでしょう。
しかしながら会社などビラミッド型ヒエラルキーの権力構造の下では上司にそれをしたところで自分が睨まれ不利な立場に追い込まれるだけです。
「そうだったのですか。社長はなんでもよくご存知で凄いですね。勉強になります!!」
そのように返すことで我が身を守ることになり社長もご機嫌でその後のやり取りもスムーズになります。
もちろんそれは部下や友人に対しても同じではないでしょうか。
宗教に関する会話において友人がキリスト教のカトリック教会について話す時に「牧師」という言葉を使った時、
「お前、カトリックでは神父だろ、牧師はプロテスタントで使う呼び名だろうが!」
と話すと話し手の友人の立場がなくなってしまいます。もしかしたら友人は負の感情に囚われてしまうかもしれません。
しかしながら、
「あれ?カトリック教会では牧師じゃなくて神父じゃなかったっけ?オレも自信ないんだけど、どちらだったかな。オレも調べるから君のほうでもし分かったら教えてくれると助かるよ」
そう言えば相手の立場をなくすこともなくスムーズに事が進みます。
私たちはつい自己中心的な思いに偏ってしまい相手に対する配慮というものを忘れてしまいがちです。
「私はあなたより優れている」
これは自身が意図せずとも私たちの無意識に表れます。
自分にその意図がなくても相手から見た相手の意識の前にそれは表れます。
私たちはその相手の意識に自分を置き換えて配慮できるでしょうか。
「配慮」という思いやり、愛
それは自己中心性とは正反対のもので私たちの日常における社会生活では必要不可欠なものだと思います。
特に有識者や専門技術に長けた方々こそそれが必要とされ、知識や専門性に長ければ長けるほど同時にそれに見合う謙虚さと高い精神性が必要とされ、そしてそれを兼ね備え持つことにより真の意味での社会貢献につながるのだと目の前に広がる日常の風景からそれを改めて思わされます。
・・・
end
(本記事は全文無料公開記事です)
ここから先は
¥ 100
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?