私教育の現場
私が過去に従事していた教育現場は公教育ではなく私塾や予備校と呼ばれる私教育でありました。
公教育と私教育のその違いについては申し上げるまでもありませんが、クライアントである親御様よりお子様をお預かりし、限られた期間内に志望校に合格させるまでお子様の学力を向上させるというのがその使命となります。
「基礎から着実に生徒さんの個々の習熟度を見ながら無理せず少しずつ」というような方針は時にそこでは適用されることはなく、目標に合わせ必要なことを限られた期間内に施し結果を出すというある意味ではプロフェッショナルな戦場でありました。
「これ以上進めるとこの子は潰れる」というようなセンチメンタルな感情は時に通用せず、講師は生徒から「分からない」と言われることを恐れ難問に取り組ませることから逃げることも出来ませんでした。
これは保護や過保護などというような理屈を超えたところにあり、出来るか出来ないかではなく、入試日までという限られた期間内に取り組まなければならず、必ずやり切るという厳しい世界でもあります。
難関国立附属中学や名門私立中となればそれ専門の対策と勉強をしていなければ上位国立大学在学中の現役の学生でさえ半分の点数しか取れないような高度な入試問題となり、そのための講師の取り組みは絶句に値し、そして受講する小学生の日常はもはや小学生でもなく子供でもなくという状況になります。
このような話をしますと大部分の方々はこの実情に批判的な見解を持たれ受験教育の在り方に疑問を呈すると思います。今の永田町の政治家や霞が関の官僚の「われ良し」の有り様を見ていますとそれもごもっともの事でしょう。
それを現場で目の当たりにしてきた私も現代の画一的な公教育の在り方や点数偏差値主義の受験教育の在り方が正しいと思ってはおらず、それどころかこれらは変えていかなければならないと思っています。
しかしながら教育者は生徒に「分からない」と言われることを恐れ難問に取り組むことから逃げてはならないと考えています。
そして感情に流されることなく「今取り組まなければならないこと」から逃げてはならないとも考えています。
教育の基本は相手ありきでありその相手は個々様々です。無理な生徒に無理なことを教えたり、無理な時期に無理なことをさせるべきではないのはごく当たり前の話だと思います。そのようなことは改めて書かせて頂くまでもありません。
ですが、相手ありき、個々の事情が様々であるからこそ、だからこそ今そのタイミングで限られた期間内に難問に取り組まなければならない場合もあります。
私教育の現場ではまさにその連続の日々でありました。
無理な子に、無理な状況で、しかも限られた期間内でどのように生徒を合格に導くか、結果がすべて、そこは世の道徳者や人格者の正論が通用しない戦場でもあります。
しかしながら最後の達成は子どもたち自身の頑張りであり私たち講師はその手伝いをしたに過ぎません。自分が合格させてやったなどというのは講師の傲慢でしかないと思います。
私たちには生徒の適正を見極め時に志望校を諦め変更させることもありますが、逆に伸びしろと可能性を見極めそれを引き出す手伝いをすることも仕事でありました。
後者の指導にあたるとき、教育者が生徒に「分からない」と言われることを恐れ難問に取り組むことから逃げることはその生徒の可能性を潰してしまうことになります。そのため逃げずにそれに取り組む必要があります。
そんな中、私たち講師はその「分からない」と生徒に言われることにより保護者からクレームをつけられ、指導力を問われ、時に教壇から降ろされることもあります。
もちろんそれ(難問)に取り組むには適切な時期、タイミング、時節というものがあることもこれまた申し上げるまでもありません。
受験教育とは「限られた時期に限られた期間内」にのみ出来るものであり、それ故に無理を承知で難問に取り組まなければならないものでもあります。
「今取り組まなければならない」
これを正しく判断するには「急ぎ過ぎ」であるとか「非難される恐れ」など保身を捨て去り、相手を見る目を養い、限られた期限というものを考慮し、そして何よりも相手の潜在する強さと可能性を信じる必要があると思います。
これらは大変難しいことではあると思いますし、一概に正しい、間違っている、などという議論が出来るような性質のものでもないと思います。
長年の現場にて経験してきた現状からこれらを学ばせて頂いたように思い、ここに書き留めさせていただきます。
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end
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