【5500字無料】 カント的人間:自由と道徳を考える——『AI親友論』を読む(4)
*Kindle Unlimitedでもお読みいただけます!
2023年に刊行された『AI親友論』について、紹介・感想・議論を行ったダイアログ(対談)です。
全4回の記事に分けて、お届けします。
(今回は第4回(最終回)! この記事だけでも読めます!)
第1回 人間についての哲学的な本!?
第2回 WEターン:人間の弱さを考える
第3回 ドラえもんと共冒険者モデル:人間とAIの関係を考える
第4回 カント的人間:自由と道徳を考える(この記事です)
(どの回も一部は無料で読むことができます)
第1回・第2回・第3回はこちら
話している人
自由
①出発点としてのカント
しぶ 前回(第3回)は、AIと人間の関係について議論しました。『AI親友論』においては、主人奴隷モデルのオルタナティブとして、「共に舟を漕ぐ」ような共冒険者モデルが提案されるということでしたね。あと話すべきことは何が残っているかな。
八角 カントだね。「カント的自由」「カント的道徳」「カント的人間観」。基本的に「カント的〇〇」が『AI親友論』の主旋律に置かれているので、カントを説明する必要があると思う。
しぶ カントというのは18世紀のドイツの哲学者ですね。確かに、本の中でもカントで説明していることも多かったし、そもそも書かれていないけどカント的な前提を使っていたものも多かった。
八角 そうなんだよね。まず「自由」の話からすると、これも完全にカントの「自由」ですね。
しぶ 最終的にカントの自由じゃないとは言ってるんだけど。
八角 でも、まずカントの自由から説明は始まるでしょう。確かに、カントはWEターン以前、『AI親友論』はWEターン以後とは別の箇所でも書かれるけど(54頁)。カントとは違うと言っても、そもそもカントと比べて説明する時点でベースは同じだと考えられるよね。
しぶ 出口先生の、自由についての議論の出発地点はカントだと。本によれば、WEターンを経ると、カントの「わたしの自由」ではなく、出口先生の言う「われわれの自由」という考え方が必要になる……と書いてあるね。具体的には、「われわれ」が「やわらぐ」という仕方での自由。
八角 「われわれ」とは言っても、ムラ社会のような同調圧力を行わない「われわれ」っていう話だよね。
しぶ 日常的な語感から言っても、同調圧力があると「自由」じゃない感じがする。そう考えると、個人ではなく集団レベルで見たときに、「自由」になるのって難しい。だから「われわれの自由」って結構、難しいことを言っているんじゃないかな。
八角 そうなんだよね。つまり「何が『われわれ』を担保するか」っていう話をすでにしたけど(第2回)、「こうせよ」という規範は、偉い人が命令して初めてみんなそれに従うわけだよ。「それをやって、いい人間になろう」って。だけどムラ社会は「われわれ」を担保しているところの上位概念(神・教会・国・王・理念など)が存在しないから、規範をどこからも出せない。何が正しいかっていうことを何からも保証されない。だからムラ社会って同調圧力になるんだよ。
しぶ 「われわれの自由」というのが、カントの「自由」をベース(議論の出発点)にしているとして、ここからは実際に本に書かれていることを確認していこうか。
②3つの「自由」の説明
八角 『AI親友論』では「自由」が3つ出てくるんだよね。まず1つ目として、カント的な自由を、「自律的な自由」と呼んでいる。つまり、〈自分が自由に行動できます、他者に決定されません〉という自由。
しぶ 縄で縛られてませんとか、アクセス制限かけられてませんとか、そういう意味での「自由」だね。
八角 そう。でも、「自由」ってそれだけじゃないよね。ということでさらに追加で2種類、挙げられている。2つ目の「自在的自由」は、「自律的自由」(行為の発動が何か他者に制御されない)とは違って、行為遂行能力に限界があるかどうかが問題になっている(92〜93頁)。つまり「自在的自由」がない状態というのは〈やろうと思ってもできない〉みたいな状態。この本では行為遂行能力に限界がないことを「無制約性」とも呼んでいて、これはヘーゲルにもある概念だと言われます。
しぶ あまり深入りはしないけど、「無制約性」は哲学の重要概念ですね。
八角 3つ目の「自遊的自由」は、さっきの「自律的自由」とも「自在的自由」ともちがう(93〜94頁)。つまり行為の発動条件や行為能力の問題じゃなくて、それが実際に行われているということですね。「自遊的自由」では〈規則にとらわれずにできてるよ!〉っていうのが「自由」と呼ばれるのであって、その条件は重要ではない。前の2つの「自由」とはちがって、「能力・他者に制限される」かどうかは言われていない。こんな感じでした。
しぶ WEターン以前の「自由」にも色々ある。その例として、いま並べてもらった「自律的自由」「自在的自由」「自遊的自由」が挙げられている。
③「われわれの自由」とは?
八角 1つポイントとして、出口先生によれば、カント的=自律的自由は「ゼロサムゲーム」という発想らしいんだよね(81頁、91頁、95頁ほか)。
しぶ 自分のやっていることが、「神にやらされている」とか、「親にやらされている」とかってなると、「自分で決めてない=自由じゃない」ってことになるからね。主導権が他に渡った瞬間、自由じゃないってことになる。
八角 そういう問題があるので、WEターン以後ではゼロサムゲームではなく、他の「自由」を考える必要があるということですね。
しぶ 具体的にどういう問題があるかというと、「あなたが自転車を漕ぐときに、交通ルールや道路にもアシストされてますよね」って言われた瞬間、「自分の自転車を漕ぐという行為は、交通ルールにも担われているから、自分は自由じゃない!」ってなるからね。
八角 本に即した言い方をすると、「自律的自由」「自在的自由」は「われわれの自由」には合わないけど、「自遊的自由」は「われわれの自由」と整合的(96頁)。
しぶ 整合的か。つまり、WEターン以前の「自由」としてとりあえず3パターン考えられるけど、WEターン以後の「自由」に使えそうなやつが最後の「自遊的自由」だけなんだな。ゼロサムゲーム問題を回避できるような「自由」観。
八角 だから「自遊的自由」をとりあえず想定しますと。
しぶ 「われわれ」に即して翻訳すると、どういうことなんだろう。
八角 「『やわらぎ』の自由」ですね。
しぶ 「『やわらぎ』の自由」がなんで、「自遊的自由」に対応するんだっけ。
八角 まず、やわらいでいる「状態」だから。「自遊的自由」っていうのは、行為の発動条件や行為能力の問題じゃなくて、それが実際に行われているということ、つまり自由な状態だから。
しぶ なるほど、「何かができる」とかではなくて、「状態」を自由と指すところがまず同じだ。
八角 「われわれの自由」=「『やわらぎ』の自由」については定義があったよね。もう一度引用しよう。
しぶ つまり「われわれの自由」とは、内への同調圧力も外への排他主義もないような、「よいわれわれ」である状態。
④「自由」の実装
八角 「われわれの自由」はカント的な自由ではない。「われわれの自由」は理念として考えられているね。どっちかというと。
しぶ どういうこと?
八角 つまり、単に「われわれ」と言うだけじゃ、排他主義とか抑圧主義みたいな全体主義的なあり方をがダメっていう基準を提出できないわけだよね。担保するものがないから。それを「自由」を理念という上位概念で考えて保証する。
しぶ よくわからない。もう少し詳しく聞きたい。
八角 「『われわれの自由』とはこういう意味です。それを『われわれ』は持っているので、排外主義とか抑圧主義っていうことはダメです」という理由づけになってる。『われわれの自由』という理念を『われわれ』みんなで信仰することで、同じ理念を尊重する共同体を作ろうって発想だよね。
しぶ 「自由という理念で『われわれ』は結託している」というとフランスとかアメリカとかの国のまとまりが想起されるけど、それとはどうちがう?
八角 同じなんじゃないかな。
しぶ それだと西洋的な説明に帰ってきちゃうよ。なにかべつのものが提案されていると思うけど。
八角 西洋的でいいんだと思う。「自由」に関しては。
しぶ どうだろう。でもまあ、実装の問題かな。『AI親友論』を実際に社会に実現するときに、どのような形になるのかによって、どうなるか分岐しそう。「同調圧力やめよう」だと単なる標語だから、実現方法は別途、考えないといけない。
八角 前にも「「われわれ」を作ったら同調圧力的になるって普通に考える、だからそうじゃないように設計する方法を考えることが大事」みたいな話が出ましたね(第2回)。
しぶ 今回の対談ではあまり触れていないけど、出口先生はNTTとタッグを組んで「京都哲学研究所」を作って、共同研究をしている(2023年〜)。NTTはネットワークのプロだから、〈「悪いわれわれ」を避けて、「よいわれわれ」にする〉ということを、具体的な手法で実現してくれるでしょう。
道徳
①不可解な哲学のジャンプ
八角 この本ではAIが5段階に分けられているけど、最初(第1回)にも言ったように、3.0から4.0にジャンプがあると思うっていう話をしたよね。
しぶ 5段階をもう一度引用する。
八角 そうそうこのAIの定義のね、この3.0から4.0へのジャンプ、つまり道徳的AIへのジャンプが気になる。そこで、これを説明するためには、カントについて話す必要がある。というのも、個々のカント的な理屈を採用すると、この道徳的なAIは何ら不思議ではない。でも実態にあっていない。というか、十分な説明がない。哲学でありがちな不可解なジャンプですね。
しぶ 「哲学でありがちな不可解なジャンプ」って何?
八角 「人間はどういうものか、どういう風に見えるか」の話をしていたのに、「何をしなければいけないか」の話を突然し始めるっていうのが「西洋哲学あるある」。「当為」とかいって、哲学をやったときにいつも直面する話なんです。私は嫌いなんですけど。「そういう話はしてない」と思うので。
しぶ 人によっては違和感があるということね。
八角 私はすごく違和感がある。でも、みんなそれを当然のものとしてやってるので、非常に問題だと私は思うんですけど。つまり、そこで結構ジャンプがあるのに、当然のものとして受け入れている。哲学がうまくいかない理由の1つはこれがあるんじゃないかなと思いますね。当為の問題。
しぶ この3.0から4.0へのジャンプも、当為の問題と同じように理解できるということでいいかな。
八角 うん、私は「そうはならんくない?」みたいな気持ちになる。
しぶ なるほど。「そこでカントについて話す必要がある」というのはなぜ?
八角 そもそも「当為とつぜん出てくる問題」は、カントだから。
しぶ なるほど。「何をしなければいけないか」の話をたくさんしてる人を誰か挙げてください、と言われたらカントだもんね。
八角 カントの道徳論は、ここにも書いてあることだけれど、人が良いことも悪いこともできる状態のときに、その悪いことを敢えて選ぶっていうのが悪いっていう理屈がある。それが雑に言うカントの道徳論。それが悪いということであって、「悪い行為をする」のが「悪い」というよりは、「悪い行為を選択する」のが「悪い」っていう理屈。
しぶ 「わかっちゃいるけど、やっちゃう」みたいなのが「悪い」と。
八角 そう。「悪いことだと分かっていてもやる」のが「悪い」っていうのが非常にカントの独特なところだし、西洋哲学はずっとその理論があるので、何を読んでも絶対その話が出てくる。こないだ森有正を読んだんだけど、そこでも「『悪い行為をしている人が悪いんじゃなくて、悪いことをするその人の本性が悪い』って話になっているけど、でも本当は違って……」みたいな理屈になってたから、やっぱりそういう二重性がある。
②道徳的AIの「道徳」とは?
しぶ キリスト教って言っていいのかもしれないし、西洋哲学って言ってもいいのかもしれないけど、人間とか悪とかの捉え方っていうのは、確かにそういう二重性をベースにしてることが多いよね。「本当はどうすべきかわかっているけど、実際にはできない、それが人間だ」。パスカルとかもそうだし。
八角 西洋の伝統的にそうなっている。
しぶ 人間は、規範を持っていると同時に規範を守れない。だからそこで初めて悪が問題になる。
八角 つまりこの本の中で出てくる「道徳」っていうのは、その意味。それ以外の日常語としての「道徳」、つまり「いいことをする(よい行為をする)っていうのは道徳的ですね」というような意味での「道徳」は、この本の「道徳」には相当しない。この点は気をつけないといけない。
しぶ なるほど。道徳的AIに即していうならどうなるだろう。
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