シェア
海の上の図書館は、かつてこの世界を支配したヒトが創ったもので、あらゆる言語のあらゆる智慧が集められている。数多くの為政者や一般市民らが、叡智を求めてこの図書館に引き寄せられ、周辺の海は遠方からもやって来る船でいつも賑わっていた。 それらのヒトがどこへいってしまったのか、司書のウミネコは知らない。今ここにいるのは彼ひとりだ。館長もいなければ訪れるヒトもない。時折、渡り鳥たちが羽を休めに寄るくらいだ。 この図書館では今も蔵書が増え続けている。司書のウミネコは、毎朝書棚を
ビリッバリバリ 透明な壁が破られて、 私たちは世界の空気に触れた。 上品な紙質が自慢の、私たち10枚姉妹の便箋。重なる私たちの中から、1番上の姉さんが引き出された。 白がベースで、縁にアラベスクが書かれている姉さん。私と同じ姿をした姉さんは、紺色のブレザーを着た少女の手で、丁寧に勉強机の上に置かれた。 秋の夜に鈴虫の声が鳴り響く。 少女は黒いボールペンを握り、緊張した様子で1番上の姉さんを見る。 少女が深呼吸をした。 すっ、と姉さんに黒い文字が書かれた。 美しい
ネオン街に酸性雨が降り注ぐ。ブラインドを下ろして部屋を出ようとすると、ドアの前に一枚の紙が落ちていた。 やれやれ、またか。 日に焼けたざら紙にはターゲットの名が記されている。 アシッド・レイン――。ふざけた名前だ。 俺は刑事だ。正確には、刑事だった。 数年前に事故で肉体を失い、紙として再生されたのだ。 ペラペラな体と引き換えに手に入れた力で犯罪者を裁く。いつしか俺の呼び名は”紙コップ”から”死に紙”に変わった。名前なんて何でも良い。この街に巣食う悪党を駆除するため、俺はきょ
一周忌法要を終えると、誰からともなく「片付け」の話になった。決してゴミ屋敷という訳ではないが、やはり昔の人らしく、実家にはそれなりに物が多い。 「ねぇ、これ何だろう」 と妹が、ガムテープでぐるぐる巻きにされた紙袋を指す。百貨店のロゴが入った小さいサイズの紙袋。それほど重くはない。中身は紙の束のようだ。チラシの裏に走り書きされた、小さなメモがテープで貼られている。 「メイドモテイク」 「メイドカフェのメイド?」 「maid も take?」 「いや、メイどもテイク?」
老人は窓越しに海を見ていた。 「鉄の船」が去った後のさざ波が、港の静けさを際立たせた。 かつて、老人はこの港で働いていた。 次々に運ばれる積荷の中では、無数の文字がひしめきあって、口々におしゃべりをしていた。 文字は、他の文字と惹かれあって、言葉になった。 仲良しの文字同士は、物語になった。 愛し合う文字同士は、詩になった。 出稼ぎを望む文字同士は、情報になった。 くっついた言葉を、そっとつまむ。 一つずつ、「紙の船」に乗せる。 早朝から日が暮れるまで、ひたすらこの作
日記なんてひさかたぶりだから迷走する。私が充分に乙女だったころは名前なんかつけて呼び掛けていた。さほど昔ではない過去に、同じように日記に語り掛けた少女がいたが彼女は殺された。殺したのはヒトラーではない。死刑執行人だなどという寒いことを言うつもりもない。 が、脇道に逸れて忘れる前に、私が日記などという酔興を思いついた経緯を記さねばならない。図書館の書架の間の細い通路にて、何冊目かの書物をぱらぱらやってぱたんと閉じたところ、隣にいた少女がびくりと首を竦めた。予想以上に大きな
今日は何をかくのですか? 日記? お手紙? ものがたり? 彼は木目が美しい棚から1枚の生成色の紙を取り出した。 うっすらとリボンの模様が浮かび上がる紙を半分に、また半分にペーパーナイフで丁寧に切っていく。 それから机の引き出しからインクとガラスペンを選び取って並べた。 あ、お手紙ですね。 想いを寄せるあのひとでしょうか。 わたしは会ったことがないけれど、彼には想い人がいるよう。 優しくて、柔らかくて……だけれど、秘めたる想いが滲む言葉を紙にしたためていく姿に胸が
和志くんへ お返事の手紙を何度も読みました。 丁寧に伝えてくれて本当にありがとう。 私は、和志くんの正直な告白、 その誠実さに胸を打たれて、 もう一度だけ、 お伝えしなきゃいけないことが出来ました。 結論から申し上げると…… あなたは、決して悪くない。 和志くんのせいで、 大地が亡くなったわけではありません。 あの千羽鶴は、 雑に捨てることなど出来ませんから、 神社の宮司様にご相談して、 先月お焚き上げしました。 全校生徒の皆さんで 折り鶴を作ってくださった喜びは、
世の中の人の多くは大学教員の仕事を誤解している。授業や研究は、それほど大変ではない。 一番つらい仕事は何かと問われたら、十中八九、テストの採点というだろう。例えば、400人教室いっぱいに学生が授業をとっていたとする。その400人の採点を、多くの教員は一人で行わなければならないのだ。 AIが発達したせいで、レポートを課すと、似たり寄ったり、当たらずとも遠からずのつまらない答案ばかりを400人分読まされる。苦行。テストを意図的に欠席し、俺の手間を減らしてくれた学生こそ、合格!
「なぁ、石塚さんとこの孫娘が帰って来ちょるの、知っとる?」 背後から不意に自分の苗字が聞こえてきて、倫子は思わず体に力が入った。 「そりゃみんな知っとるいね。じい様の紙漉きを手伝うんじゃろ?」 初老の女性が二人、買った物をエコバッグに詰めながら話している。その「みんな知っとる紙漉きを手伝っている孫娘」がすぐ近くにいるとも知らずに。 レジの近くにいた倫子は、二人に気づかれないようそっとスーパーマーケットを出た。祖父の軽トラに乗り込み、エンジンをかける。 この町に来てから
封を開けると、短い手紙と折り紙のゾウがふたつ。 グレーの紙で折られていたが、かなり色褪せている。 足を広げて、立たせてみた。 大きい方が母親、小さい方が子供だ。 勝手にそう思った。 「悩みましたが、この象の折り紙をやはりあなたにお届けしたいと思います」 小学校の6年生だった。 2学期の席替えで、私は拓人と隣り合わせになった。 授業中、彼が机の下でゴソゴソしているので覗くと、折り紙を折っている。 顔は黒板に向けたまま、親指と人差し指、中指が別の生き物のように紙を折っていく。
「ごうかいな こいをして たくさんのスキをしました」 私の手のひらの上で寝そべりながら、最後の式神がほがらかに言う。グリコの包紙をひとさし指でなぜながら「ヘタクソだねぇ、日本語が」と、あなたからよく言われた言葉を独りごちて顔を上げる。 対岸に広がる朽ちた町と、百年前に役目を終えた電波塔。此岸に暮らす人々から、電波塔は「高い」と言う意味の公用語で呼ばれている。本当の名前を知る人や、知ろうとする人はもういない。 「パーデンネン」 式神が囁くので「それはなあに」笑いながら耳
家の六畳の離れが私のすべてになっていた。遠くから幼い子どもが高らかに歌う軍歌と、障子越しに見える木の影が、ここから得られる外の世界だった。 私は死亡率の高い病に罹っており、往診の医者以外に他人に会うことはなかった。戦況の悪化で高額な薬も手に入らなくなり、私の命はここで終わるのだと諦めていた。 寒い冬の日、久しぶりに障子越しではあるが父がやって来た。 「瑞穂、幼なじみの栄二君に召集令状が届いた。1週間後には出征する。栄二君とお前は結婚することが決まった。本人たっての望
大切な話をする時、わたしたちはあえて距離をおく。 心を開いて本音を伝える時こそ、適度な距離が必要だから。 と言っても、相手の顔が見えないのは不安だ。 それではイマドキのzoomなんかを使うのですかと聞かれそうだが、イマドキどころかイマドキは子どもさえ使わないかもしれないものを使う。 それは、糸でんわだ。 紙コップで作るアレである。 あの懐かしの糸でんわ。 ピンと張られた糸を通して伝わる相手の声は微かにふるえている。 それは心の扉を開く時の慄きなのか、あるいは物理的な振動なの