露霜日記 #秋ピリカ応募
日記なんてひさかたぶりだから迷走する。私が充分に乙女だったころは名前なんかつけて呼び掛けていた。さほど昔ではない過去に、同じように日記に語り掛けた少女がいたが彼女は殺された。殺したのはヒトラーではない。死刑執行人だなどという寒いことを言うつもりもない。
が、脇道に逸れて忘れる前に、私が日記などという酔興を思いついた経緯を記さねばならない。図書館の書架の間の細い通路にて、何冊目かの書物をぱらぱらやってぱたんと閉じたところ、隣にいた少女がびくりと首を竦めた。予想以上に大きな音が響いたらしい。眼があうと彼女は悲しげに眉を寄せて言った。中の人が飛ばされてしまいます。
聴けば本の中には場面を再現する演者がおり、こちらが勢いよく本を閉じると、小さな彼らは何十頁も飛ばされてしまうのだそうだ。なるほどそれは悪いことをした。私は心の中で彼らに頭を下げた。少女は上質な紙のような、白いなめらかな肌をしていた。
併設の珈琲店で、彼女はココアを両手に包んでいる。はじめて貰った恋文を庭で燃やしたと、悪びれもせず笑う。指の先で崩れた灰は葉の落ちた桜の根元に。ふーん、と珈琲を啜りながら、私はそういう話を何処かで読んだと思っている。
紙の上に言葉を載せて、皿の上に食事を載せようとすると、独創性という単語を呪詛のように聞く。図書館へ来て本をめくれば、あれもあった、これも既に存在した。思えば紀元一世紀の中国に紙は既に存在したのだ。七世紀イスラーム世界に渡ったとき紙は盗品だった。
俯くとさらさら流れる髪を、少女が耳に掛ける、その仕草でなんとなく、今まで付き合ってきた女の子の誰某を連想する。紀元前六世紀のイスラエルにヤハウェは既に存在した。新約聖書が書かれたとき神は盗品だった。その仕草は誰から盗まれたのだろう。あなたや私に酷似した人間が、これまで何人いたのでしょうね。どうしようもなく悲しくなって、口を滑らせた。少女は鷹揚な眼をあげた。
独創的に生きようと試みることすら多大な骨折りで、何もかもを神に委ねられたらどんなに楽か。ヒトラーは神だった。ユダヤの少女を殺したのは市民だった。そして今この瞬間も、私たちは誰かを殺している。楽な人生の対価として。
星の数ほど、と少女は陳腐な言葉を返してくる。
けれど頁の上の演者は、毎回小さなアドリブを入れるのよ。
盗品の紙に、使い古された言葉。だから彼女は恋文を燃やしたのだ。けれど彼女も、私の知っている誰某と同じ仕草を持っていて、きっと神は人から人へ盗まれることで永遠に生き続ける。
灰を桜の根元に埋める、優しい手つきを思い浮かべた。
そういうことを忘れたくなくて書いたのだ。あなたの肌に似た上質な紙に、書いた途端ペンの先で灰になる言葉で。
あとにも先にも唯一の、あなたに向けて。
了
1154字
おつかれさまです。よろしくおねがいします。