K.WATANABE
宮崎県沿岸部の海の民俗についての記事を紹介します。
宮崎市関連の記事を集めます
延岡市の民俗に関する記事を集めます
宮崎県都城市で開催されている「おかげ祭り」について、2000年に書いた原稿を紹介しています
個人的に書きためてきた民俗学関係の記事、特に宮崎県の民俗、及び戦争の民俗関係の記事を、少しずつ公開していきます。 過去の入稿データをアップしている場合には、引用などされる際に出典でご確認下さい。 宮崎県内で、看護専門学校、大学で非常勤講師(文化人類学)をしています。文化人類学、民俗学、博物館学の非常勤講師の依頼をお待ちしております。
比江島重孝が単行本に 昔話を提供した初出はこの本の可能性がある。 児童文学者協会 編, 池田仙三郎 等絵『日本むかしばなし宝玉集 上』 宝文館、昭和30年(1955) 下記の作品が収録されており、作品末に再話者が記されている。 もくじ ももたろう/9 おしょうさんと小ぞう/22 ムジナとおにへいた/29 かちかち山/35 テビツのふち/42 ウシになった男/45 きんたろう/50 もんじょう長者/55 天人っ子のころも/62 ふえふきむこさん/71 こぶとりじいさん/7
しんとみ発見学びフロンティア塾 於:新富町総合交流センター 令和6年11月19日(火) <大正13年> 10月26日、新富町大字下富田横江生まれ。<新富町大字下富田> 祖母=比江島ハル、父=重雄、母=つちえ → 『日向の民話 1(日本の民話14)』未来社 <昭和15年> 満洲旅行→『荒野の少年』、 父茂雄=義城(ウィソン)警察署(朝鮮慶尚北道義城郡)の巡査部長 <昭和17年> 昭和17年3月、大邱師範学校尋常科卒業(現韓国) 昭和17年4月、朝鮮慶尚北道青松(チョ
夕刊デイリーに投稿した草稿をアップします。 了解が得られたので掲載記事もアップします。 銃後の祈りと願い―戦時下の女性が頼った千人針―① ドラマなどで戦時中のシーンを描く際に必ずといっていいほど千人針が描かれます。戦時中に小学生(当時は国民学校)以上であった多くの女性は記憶しているのではないでしょうか。しかしながらその千人針が何故縫われたのか、どのような意味があるのか、いつから始まったのかなどを知る人は少ないでしょう。この連載では、戦時下での女性たちの祈り、願いを込めた千
以前、お話を伺い、博士論文にも引用させていただきました 聞き取り⑨ 日高(旧姓中村)美恵子(女性。大正15 年5 月7 日生、大分県中津生まれ、宮崎県宮崎市在住) 父の仕事の関係で昭和18 年までは大分県の中津で過ごした。昭和7 年4 月中津の南部尋常小学校に入学した。 支那事変の頃、私が一番覚えているのは、小学校五年生の頃、兵隊さんがたくさん中国に行く頃、私寅年なんですね大正15 年のね。寅年はね、千里行って千里帰るていうて、年ほど千人針ができよったんですよ。授業が終わっ
『宮崎市の100年』の巻頭言の草稿を公開します。最終稿は刊行本を御覧下さい。 家族写真アーカイブのすすめ 渡辺一弘 令和六年は宮崎市制一〇〇年という節目である。大正十三年(一九二四)年に宮崎町・大淀町・大宮村が合併し、宮崎市が発足。平成十八年(二〇〇六)に田野町・佐土原町・高岡町を編入、平成二十二年(二〇一〇)に 清武町を編入した。これまでも宮崎市の写真集が刊行されたが、今回は新制宮崎市域を網羅しているという点で貴重な構成となっている。 さらに家族アルバムを中心に収集
火車は、悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪である。 宮崎県の火車の伝承としては、怪異・妖怪伝承データベースには9例が取りあげられている。 なかでも詳細に報告されているのが、田中熊雄『宮崎県庶民生活誌』(日向民俗学会事務局、1981年)である。その該当箇所を引用する。 (田中熊雄『宮崎県庶民生活誌』日向民俗学会事務局、1981年) 令和6年8月28日から29日にかけて多くの竜巻が発生して大きな被害をもたらしたが、そこで初めて、宮崎県が竜巻の多い県
以下、『宮崎県の民俗芸能』(宮崎県教育委員会、1994年)の草稿です。 一 伝承地 川南町通浜 二 上演の時期及び場所 この棒踊りは「通浜棒踊り」とも呼ばれ、「通浜盆踊り」とともに新暦八月十三日から十五日にかけてお盆の晩に踊られる。夜七時頃から始まって、十二時頃まで続く。以前は一時から二時頃まで踊って、その後各個人宅で五時頃まで「じょうずあげ」といって反省会をかねた直会を朝まで行なったものである。 現在、踊れる人が少なくなってきたが、棒踊りに関しては、小学生が中心
『宮崎県史 資料編 民俗1』宮崎県、平成4年(1992) 第一章 生業 第一節 稲作と稲作儀礼(小野重朗) 一 水田と稲 1 水田の種類 2 溜池と井堰 3 開田の話 二 稲作り 1 苗代作りと播種 2 田植え作業 3 田植えの習俗 4 田の管理 5 雨乞い・風祈祷 三 稲の収穫 1 稲刈り以前 2 稲刈りと稲干し 3 稲の脱穀 4 籾すりと貯蔵 四 稲の生産暦 1 生産暦と祭り
三尾 良次郎(みお りょうじろう) 1894年(明治27年)5月28日ー1978年(昭和53年) 明治27年5月28日、宮崎県日向市生まれ。 住所:日向市大字富高69-6 宮崎県立延岡中学校卒業 広島高等師範学校を卒業。 大正7年、青島(ちんたお)中学校教諭 大正11年3月、京都帝国大学経済学部卒業。 京都帝国大学大学院へ進み、経済地理を研究。 大正14年4月、満州鉄道満州教育専門学校教授 昭和3年5月~昭和18年8月まで 台湾総督府立台北高等学校教授 ※地理、法制、経済の授
青空市場 宮崎市は、戦争末期の昭和ニ十年八月十日以隣の戦災に続いて、相つぐ大きな風水害によって商店街の被害は大きく、それらの復興がすすまないまま、二十一年、江平一の鳥居付近、橘通りの戦災跡地、また大成座前、帝国館横などに、青空市場としてバラックマーケットがあらわれた。二十三年ごろから、警察の取り締まりがきびしくなって、これら露天商人に対して、道路上の営業停止通告がなされたが、容易に青空市場は絶えなかった。 戦災復興事業の一環としての区画整理事業では、上野町通りから西橘通りに道
バスが人々の足であった時代には駅前よりも橘通が人々の集う場所であった。 明治十三年(一八八〇)に完成した橘橋が祝詞に由来しての命名で、この橋にかかる街道を橘通と呼んだのが始まりで、正式には明治二十一年(一八八八)宮崎町の誕生してからである。 昭和27年に後藤良則が創業。昭和47年にイズミヤ、その後、寿屋、ユニード、ダイエーが開業し、苦戦するようになった。昭和49年に後藤は76歳で逝去、昭和50年に倒産した。映画館であった橘会館はMRT宮崎放送に引き継がれた。 宮
現在、遠山銃砲店は、打ち上げ花火、クレー射撃、ダイナマイトなどを扱っている。 その先祖に様々な業界に関わり橘通の町作りに寄与した人物に遠山克太郎がいる。人物紹介を数点紹介しておく。 宮武喜三太『宮崎県大観』青潮社、1984 宮崎市史編纂委員会編『宮崎市史 続編下』宮崎市、1978年 『人事興信録』データベース みやざき市広報 179号 1958年11月号
『地方別日本新聞史』日本新聞協会、昭和31年(1956) 中村秀人(日向日日新聞編集局長) 「宮崎県新聞史」 新聞の誕生まで 宮崎新報 政治に深入りした「宮崎新報」 日州新聞 日州日日新聞 日向新報 日州独立新聞 清新さを買われた「日州」 日州独立新聞 若山甲蔵 日州 日州新聞 宮崎時事新聞 県外紙の進出 宮崎毎日新聞 宮崎新聞 延岡日日新聞 宮崎日日新聞 延岡新報 宮崎日報 日向日日新聞 鹿児島新聞宮崎版 宮崎時事新聞 宮崎 都城、延岡の新聞 都城新聞 日州魁新聞