宮崎市の青空市場
青空市場
宮崎市は、戦争末期の昭和ニ十年八月十日以隣の戦災に続いて、相つぐ大きな風水害によって商店街の被害は大きく、それらの復興がすすまないまま、二十一年、江平一の鳥居付近、橘通りの戦災跡地、また大成座前、帝国館横などに、青空市場としてバラックマーケットがあらわれた。二十三年ごろから、警察の取り締まりがきびしくなって、これら露天商人に対して、道路上の営業停止通告がなされたが、容易に青空市場は絶えなかった。
戦災復興事業の一環としての区画整理事業では、上野町通りから西橘通りに道路を設けるのに、従米の黒迫通りとの三角地(現橘タクシーの角まで)を緑地帯とする計画であったが、実際には、現在の三角地だけが残された。この地帯はできたのは、昭和二十六、七年、といわれている。この周辺一帯は、遊興娯楽地域としてにぎわい、露天商が多かった。これらの露天商に対して、警察は強制立ち退きを命じた。それらの集団によってできたマーケットに、青空・中央・ライオン市場などの現青空ショッピングセンター、ニコニコ市場などがある。
しかしそうしたなかでも、露天商は三角地地域を中心として後を断たず、市警察は、露天商約一〇〇店に対して「道路交通等取締規則」によって、即日退去を指示したが、業者は生活権の侵害であると反対したのである。
これらの露天商の商品は、価格が安く、しかも新鮮であることから、江平、大淀方面からも買い出し客が多く、市民の台所として好評を博していた。そこで露天商は、この地帯での営業を認めるよう、周辺商店の同意を求めるとともに、警察、市など行政当局に陳情書を提出した。その結果、昭和三十二年十月、当時の市長有馬美利は、周辺商店街の大成大通街会長清水子之吉を露天商の代表責任者として、このったいの使用許可書を出し、警察の協力もあって、青空市場として今日あるわけである。
この青空市場露天商は、昭和三十七年一月現在四四人であったが、四十一年七月現在は二六人となり、五十年一月現在の調査では、一九人と激減している。そして、これら露天商人の販売品目は、野菜類、果物、切り花、シジミなどである。
宮崎市史編纂委員会編『宮崎市史 続編 下』昭和53年
昭和23年5月2日 「話題」(日向日日新聞から)
大成座通から仲町(現橘通西2丁目)一帯の露天商人(別名青空市場)に警察署が道路上の営業停止を通告した。
『宮崎市史年表』1974年