追悼、日髙美恵子さん
以前、お話を伺い、博士論文にも引用させていただきました
聞き取り⑨ 日高(旧姓中村)美恵子(女性。大正15 年5 月7 日生、大分県中津生まれ、宮崎県宮崎市在住)
父の仕事の関係で昭和18 年までは大分県の中津で過ごした。昭和7 年4 月中津の南部尋常小学校に入学した。
支那事変の頃、私が一番覚えているのは、小学校五年生の頃、兵隊さんがたくさん中国に行く頃、私寅年なんですね大正15 年のね。寅年はね、千里行って千里帰るていうて、年ほど千人針ができよったんですよ。授業が終わってから、クラスの半分以上が寅年ですわ。こん人たちだけが残って、学校に千人針が何枚も来るんですよ。他の人は一つしかできないけど、寅年の人だけ小学校の5、6 年生、女学校に行った頃も来よったけど、小学校の5、6 年は多かった。「死線を越えて」といって五銭玉が千人針にきれいに結び付けられたものもあった。糸は赤の木綿糸、糸は切らずに縫い続けていく。晒しで二重に折って、まっすぐではなく、玉を三つまわして作った後は、返し縫いで縫っていた。手拭いではなく、晒し木綿で作っていた。武運長久と書いてあったり、御守りが入っていたり、宇佐神宮のお祓いを受けたものもあった。昭和18 年に宮崎に帰った頃は、千人針は行われていなかった。出征するときに千人針を作るので、時間が無い。寅年の人はおらんかといって慌てて探すものだった。千個の糸玉をもらうのは本当に大変だった。街角に立って、「千人針をしてください」といって探していた。中津の博多町という繁華街や駅、学校の前に集まっていた。寅年の女性がいると分かるとその学校に行く人も多かった。大日本国防婦人会の女性たちが白いエプロンをして、そん人たちも一生懸命やった。千人針を手伝っているのではなく、婦人会は婦人会で千人針を集めているようだった。隣組ができてからは、街頭に立たなくても、千人針を作ることができるようになった。(調査:平成22 年11 月18日)
謹んでお悔やみ申し上げます。
『日高のばあちゃん-体験八十年六十三の言葉』