銃後の祈りと願い 戦時下の女性が頼った千人針
夕刊デイリーに投稿した草稿をアップします。
了解が得られたので掲載記事もアップします。
銃後の祈りと願い―戦時下の女性が頼った千人針―①
ドラマなどで戦時中のシーンを描く際に必ずといっていいほど千人針が描かれます。戦時中に小学生(当時は国民学校)以上であった多くの女性は記憶しているのではないでしょうか。しかしながらその千人針が何故縫われたのか、どのような意味があるのか、いつから始まったのかなどを知る人は少ないでしょう。この連載では、戦時下での女性たちの祈り、願いを込めた千人針を中心に紹介します。
戦時中、直接戦闘に加わらない一般国民、なかでも女性や子どものことを「銃後(じゅうご)」といいました。桜井忠温(さくらいただよし)が英語のホーム・フロントを訳したのが始まりで、大正二年に小説『銃後』が刊行され、その後、次第に一般に使われるようになった言葉です。銃後の護りなどといい、戦地で戦う兵士たちに対して、国内でも協力できる御国を護る工夫ができるはずだという趣旨で様々な努力が行われました。
銃後の祈りとは、主に女性たちが戦地に出征した夫や息子たちの無事を祈ることをいい、延岡市で最も有名だったのが竹谷(たけだに)神社でした。
昭和十二年九月七日付『宮崎新聞』に「軍の神竹谷神社八日祈願祭」との見出しの記事には「延岡市東海軍の神として入営兵士の武運長久祈願の為、参拝者のたえまない竹谷神社では八日午前九時より祈願祭を行うこととなった当日奉納の神楽は鎮守の舞、剱の舞、弓矢の舞、岩戸の式等が行われるので遺家族多数参拝されたしと」とあります。令和五年四月二十四日付『夕刊デイリー』に戦時中参拝時に男性はわらじを、女性は自分の毛髪を奉納したといい、戦後その処分に困ったことが記されていました。
「女の髪の毛には大象も繋がる」という仏説にあるように女性の霊力に頼る習俗が古くからあり、民俗学者の柳田国男は「妹(いも)の力」と呼びました。妹とは、女性一般を意味し、古代に女性の持つ霊力に旅の安全を祈願し、糸玉や毛髪、布片などを御守として持たせるという信仰がありました。
古代において旅の安全を祈る方法として玉の緒(たまのお)信仰がありました。高崎正秀によると、「淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす」「海原を遠く渡りて年経とも子らが結べる紐解くなゆめ」という和歌にあるように、女性の霊なる魂の一部分を紐に結び込めて、男の旅衣に結び止めたといいます。玉の緒信仰は、刺し子を利用した、戦国武将の武具や漁師の労働着ドンザなどに女性が玉結びをして無事を祈るように、日本の民俗文化に根付いており、そうしたバリエーションの一つとして千人針もとらえられます。
【写真】竹谷神社 戦時中、戦勝祈願が行われました(令和5年)。
銃後の祈りと願い―戦時下の女性が頼った千人針―②
さて、千人針はいつから始まったのでしょうか。明治6年に徴兵令が出されますが、免役条項が多く、徴兵の可能性が少なかったため、徴兵逃れ祈願、神社に参拝し、徴兵くじが外れますようにと祈願をしました。
しかし、徴兵が厳しくなり、日清戦争の頃には、愛国心が芽ばえ、積極的に戦争へ参加する機運が高まると、残された妻や母は地域の神社へ戦地での弾丸(たま)除け祈願が行われるようになりました。千人針は、日清戦争に行われていたとの伝聞もありますが、記録に残されているのは日露戦争からです。
日露戦争に出兵した弟に捧げた与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」という詩が反戦的であるとして非難されます。戦地での兵士の無事を祈ることさえ非難され、時代は国民が国のために命を懸けることが当然となっていました。
こうした時代に流行したのが千人針でした。「千人力」という呼び方で大阪の都市部で流行した習俗が「千人結び」と名前を変え、東京へと伝わりました。その際には若い女性だけが参加できるなど御守としての効果を高めるために厳しい条件があり、それほど広まりませんでした。ただし、日露戦争の戦記物などで戦地に持ち込まれた千人結びについて紹介されました。なかでも桜井忠温『銃後』(大正二年)によって広く知られるようになりました。千人結びは準備した布に糸を結ぶだけにしたものを街頭に立って、糸を結んでもらう方法でしたが、糸を通した針でその場で縫って糸玉を作ってもらう方法に変わりました。しかし、千人結びは迷信として扱われることが多く、戦地に捨ててあった話も伝えられました。
千人針という言葉は教育講談『愛国心千人針』が初出です。日露戦争での千人結びのエピソードを愛国美談として描き、千人針という言葉が次第に広まります。
こうして日露戦争の千人結びが拡散され、満州事変で全国的に知られるようになりました。寺田寅彦も「よほどたちのいい迷信」と好評で、さらに五銭白銅を縫い付けて「しせん(死線=四銭)を越える」という話も記しています。その後、苦戦(九銭)を越えるという意味で十銭、さらにこの二つを合わせて十五銭=銃後の護りとなるという語呂合わせも流行りました。
大正三年生まれの女性は、最も運気が強い「五黄の寅年」にあたり、千人針を結んでもらうと縁起がよいとされました。満州事変の際に満一七歳、女学校に千人針の依頼が殺到したそうです。その後、他の世代の「五黄の寅年」に広がり、さらに日中戦争以降は寅年の女性全般には歳の数だけ縫ってもらえるというようになります。満州事変の頃までは、千人針は迷信だと断る女性も多く、そこで千人針を縫ってもらえるように間に入ったのが国防婦人会の女性たちでした。
【写真】明治37年6月11日付「イラストレイテド・ロンドン・ニュース」
イギリスの新聞でも「日本で流行している戦争の迷信。開運の肌着」として紹介されました。
銃後の祈りと願い―戦時下の女性が頼った千人針―③
戦時下の銃後の護りの象徴は、婦人会でした。愛国婦人会は北清事変を契機に明治三十四年に発足し、日露戦争で出征軍人送迎回数は約一八万回、出征軍隊向け寄贈品五百種を越える活躍でした。この頃にコンフォート・バッグを慰問袋と直訳し、出征兵士に贈られるようになりました。愛国婦人会は、上流階級の女性が中心となり、金品を中心に協力していました。
満州事変を機に結成されたのが大日本国防婦人会です。昭和七年七月二十七日付『関西中央新聞』には、「出征軍人の見送りに、また哀れな遺族の慰問に千人針の依頼に、雨の日も風の日も街頭に立った千人針を市場やデパートや郊外電鉄の入口で依頼して歩いた頃は人も知るあの酷寒骨を刺すさ中だった。頼んでも「今手袋をはめていますから・・・」とか「荷物をもっていますから・・・」などと断られることが幾度かあった。」と、大阪国防婦人会の発足理由が記されています。
大正年間に、在郷軍人会全員に軍隊手帳など必需品を入れた奉公袋が持たされるようになり、日の丸寄せ書きが出征兵士に贈られるようになりました。本来は国旗に文字を書き込むことは法律違反なので、反対する人もいましたが、在郷軍人会が出征兵士を見送る風景を象徴するものとして定着していきました。
大阪国防婦人会は、陸軍の援助を受け、大日本婦人会として急速に組織化を遂げ、在郷軍人会とともに男女の組織化がすすめられ、日中戦争開戦とともに全国の街頭に千人針風景がみられることになります。
昭和十二年七月十八日付『宮崎新聞』には「神武の原頭に愛国千人針在支将兵に贈らる」との見出しで「『銃後の護りは私達の腕で』と甲斐々々しく叫んで起つた国防婦人会宮崎支部福島支部長ほか会員五百名は十七日午前七時四十分宮崎神宮へ集合午前八時から社頭で心からなる北支駐屯軍将兵の武運長久を祈つたがさらにそれと同時に神宮第一鳥居脇で千人縫を行つて非常時の国の婦人の意気をみせてゐる早朝からの人々で一人々々による厚い愛国心に千人縫の完成も近いがこれは総て直ちに在支将兵へ送るのである。」と記されています。
日中戦争が始まってから、毎年のように出征兵士は増員されていきましたので、千人針の準備も大変になりました。さらに千人針を持参することが常識となっており、千人針を持参していない兵士のために、婦人会などの依頼で女学生たちが全員体制で大量に千人針を製作し、戦地に送ることも多くなりました。
婦人会が女性を象徴する千人針を仕上げ、在郷軍人会が日の丸の寄せ書きを用意する体制が整いましたが、日の丸や手拭いに「力」という文字を男性が書く「千人力」と呼ばれるものも作られました。
【写真】宮崎神宮社頭での婦人会による合同参拝(昭和12年頃)
銃後の祈りと願い―戦時下の女性が頼った千人針―④
召集令状は、地元の兵事係が直接自宅を訪れて本人あるいは家族に手渡しされました。召集を知った近隣や親戚などから祝福や激励を受け、餞別や出征のぼりが贈られ、前日には祝宴が開かれ別れの杯を交わしました。氏神様にお参りし、千人針やお守りを身につけ、軍服にたすきをかけ、奉公袋に召集令状などを入れて、日の丸寄せ書きを手にして家を出ます。学校や役場で壮行式が行われ、たくさんの人々に見送られながら、最寄りの駅から万歳三唱の声を受けながら出征していきました。
召集令状が届いてから出征するまでわずか三日から一週間程度しかありません。その期間に母や妻は千人針を準備しなければなりません。戦争に疑問を持つ暇もなく、できるだけ人通りの多い場所まで出かけて通りすがりの女性たちに声をかけ、一針を乞う。宮崎市や延岡市でも同じような千人針風景が見られました。
昭和十二年七月二十二日付『宮崎新聞』には「敵前に活躍する我が将兵の激励慰問は各方面より慰問袋、献金が委託されつゝあつて延岡市兵事係では愛国民の行為に感激をなしてゐるが、二十一日は延岡高女生が市内各所に立つて道行く人々に呼びかけ、愛国真心の千人針縫を行つたが、北支に活躍の兵士に送ることゝなつた」と女学生が街頭で奮闘していました。同年八月七日付『宮崎新聞』には「延岡市カフェー、キリン女給さん達が千人縫六枚を五日市兵事課に託した」と特に送る相手を決めないまま千人針を作り、兵事係を通して戦地に送りました。
同日の記事には「女工さんや女学生さん達が皇軍兵士へ千人縫、慰問袋などを贈って愛国熱の溢れている折柄、延中生が『千人力』をつくって千人縫にかえて皇軍兵士に送らんと街頭で人々に『一筆づつ書いて下さい』と呼びかけている、千人力は白木綿に『力』と一字づつ千人から書いて貰って千人の赤誠をこめるのであるが、勇士をして一層力づけさせることだろう・・・工都延岡の非常時風景も緊張味を帯びてきた」と、前述の千人力が延岡でも作られました。
新聞や雑誌には愛国美談として千人針の奇蹟が伝えられ、多くの小説、映画、音楽にも千人針が描かれ、出征兵士の必需品となりました。百貨店などでは糸を通すだけの様々な千人針が販売され、次第に如何に女性たちが効率的に千人針を作れるか、手間を省けるように工夫され、祈りよりも作らざるを得ないものになっていきました。
千人針の向こうには、妻や母親以外にも、手伝ってくれた千人の女性がいました。男として、快く戦地に向かい、戦う覚悟を決める一助になったのかも知れません。
【写真】映画『千人針』スチール写真 現存する最も古い国産カラー劇映画。昭和12年10月封切。
銃後の祈りと願い―戦時下の女性が頼った千人針―⑤
熱気あふれる千人針風景や壮行式も、出征情報が敵国に伝わってしまうので、控えるように通達され、次第に秘密裏に進められるようになりました。さらに千人針の効果なく、戦死して帰国する兵士が増えてきます。戦況とともに銃後の祈りのかたちも変わらざるを得ませんでした。
次第に千人針が準備しにくい時代になりました。物資不足に備えて配給制度が導入され、昭和十七年二月の「綿衣料品の切符配給制」で、衣類や布、糸などが配給となり、千人針の材料が入手しにくくなり、準備する女性の苦労は大変だったようです。
さらに戦陣訓の徹底などの影響で、出征兵士から千人針を受け取ることを拒否されたり、入営の際に厳しい上官からは千人針の携行を禁止されることもあったそうです。
宮崎神宮の神社日誌には、千人針祓をした件数が記されています。それによると千人針は終戦の直前まで細々と続いていたことが分かります。
千人針の最大のジレンマは、戻ることのない特攻兵へ贈られた千人針です。この攻撃に出ることを、残された女性たちは知ることなく、弾丸除けのお守りとして贈ることになります。
ここで靖国神社所蔵の遺書を紹介します。昭和二十年一月五日に戦死した神風特別攻撃隊第一八金剛隊の二三歳の若者から母へ。「天の優しい御恵みと思ひますが、本日出撃の予定が、天候不良のため明日に延期され、おかげで心のこもる千人針が私の手に入りました。嬉しく身につけ南の決戦場にまゐります。私は千人針はとてもまにあはないだらうと断念してゐたのですが、いよいよ出撃の幾時間か前に私の手に入りました。(中略)母上様よりの「御守護札」肌身はなさず持つて任務に向つてまゐります。では御礼まで。」この兵士は千人針を持って特攻機に乗り込みました。
昭和二十年三月頃から宮崎県内、延岡市内でも空襲が始まりました。そうなると銃後の備えどころではなく、自分たちの命を守るだけで精一杯でした。開戦当時の熱狂は忘れ去られ、送られた出征兵士の多くは、千人針の祈りも空しく、無言の帰還を遂げることとなりました。
戦地では、戦勝記念として兵士が持っていた千人針と日の丸の寄せ書きが米兵の戦利品の一つとして持ち帰られました。時代を経てミリタリー・オークションの目玉商品として流通したり、遺族へ返還運動が行われたりしています。
千人針を通して明治時代から戦後までを振り返りましたが、果たして千人針とはどのような役割を果たしたのでしょうか?銃後の祈りとは美談だったのか、これを機に振り返ってみてください。
【写真】「宮崎神宮神社日誌」昭和20年7月28日、「千人針祓一件」とある。この時期まで千人針は続けられていた。