三尺棒踊り
以下、『宮崎県の民俗芸能』(宮崎県教育委員会、1994年)の草稿です。
一 伝承地
川南町通浜
二 上演の時期及び場所
この棒踊りは「通浜棒踊り」とも呼ばれ、「通浜盆踊り」とともに新暦八月十三日から十五日にかけてお盆の晩に踊られる。夜七時頃から始まって、十二時頃まで続く。以前は一時から二時頃まで踊って、その後各個人宅で五時頃まで「じょうずあげ」といって反省会をかねた直会を朝まで行なったものである。
現在、踊れる人が少なくなってきたが、棒踊りに関しては、小学生が中心になり、運動会でも発表できるようになり、練習も増えてきている。女児が踊り、男児が太鼓を叩くという様に分担している。最近は町の文化祭・運動会などにも発表する機会が増えてきている。
三 行事次第
十三日は、智浄寺の檀家の人たち(浜の半分ぐらい)で踊る。
十四日は、初盆の家の人たちが集まって、祭壇を造り、遺影や花を供えたりする。ニジョロ(新精霊)を供養する。平成五年は一六軒であった。以前は各家で行ない、踊りは初盆の家々をまわった。最後には墓に行き、竿を立てかけ、直会をする。
十五日は、水神供養の盆踊りとして、漁協の広場で踊られる。以前は、各班の水神様をまわっていたが、今は最後に各班の水神様に笹を供えるだけである。
十六日は、前日と同様漁協広場で踊られる。「魚供養盆踊り」と書いた幕を櫓にはる。青年団主催のため「仲間踊り」とも称する。
四 設備・道具
櫓は、四日間とも四畳半ほどの片棟平櫓を設営して、前に四斗樽の太鼓を二つ置き、その真ん中にマイクを立て、二〇数人が交代に太鼓を叩いたり、交代で音頭をとる。七夕竿は櫓の四隅に結び付ける。竿はその日に当番で造る。
三尺棒踊りの踊り子は一〇名以上。手踊りの踊り子は二〇名以上。踊り子の服装は、以前は、浴衣に化粧だすきをかけて編み笠をかぶり、手甲と脚絆を付けた。現在は、浴衣にそろいの襷・鉢巻だけである。踊り子の三尺棒は、長さ約一メートルの竹に黒白(右手)・紅白(左手)のテープを交互に巻いて両端に白い房を付ける。以前の盆踊では、仮装行列のように、やかんなどをぶら下げて踊ったものだった。
五 歌詞
口説は以下の一四が伝承されている。なお、通浜地区では「供読」の字が使われているので、そのまま記す。
牡丹長者供読 お艶供読 芝居主人供読 鈴木主人白糸供読
お民半蔵供読 富吉供読 うめじ供読 おしよ亀松供読
山崎三左供読 力弥供読 俊徳丸供読 志賀団七供読
日連尊者供読 恋慕ひえつき供読
これら口説の所要時間は、口説によって違うが、およそ一五分から一時間半ぐらいのものである。「志賀団七供読」だけは二時間ぐらいかかる。
以下、由来と関連のある「恋慕ひえつき供読」の歌詞を掲載する。
六 組織
昭和三年の昭和天皇即位の御大典記念で、宮崎市で芸能大会が行なわれた。通浜の「三尺棒踊り」は、四〇名ほど(音頭四〇歳代・太鼓三〇歳代・踊り二〇歳代)が参加して、賞をもらうほど盛んに踊られていたという。手踊りの方は、昭和三十七年当時で、音頭部二二名、太鼓部二二名の大きな保存会であったが、棒踊りの方は保存会もなく、いつの間にか踊られなくなった。そこで、佐藤義雄氏と、大橋健市氏(踊り)・高谷正澄氏(太鼓)・一政晃氏(音頭)が中心となって三尺棒踊り保存会を結成した。当初は、大人たちで構成していたが、仕事の都合などで、現在は小学生を中心に継承されている。
七 由来・伝承経路
1 由来
三尺棒踊りの由来については、『川南町史』に、
と、記されている。
2 伝承経路
通浜集落は、終戦直後まで「通山浜」と呼ばれ、通山は「通山村」といわれていた。その昔、通浜の人たちは細島(現日向市)に住んでいて、漁業を営んでいたが、暮らし向きは良くなかった。その頃通浜の人々は半農半漁で、網や釣漁をして暮らしを立てていた。たまたま、納代幸吉・三浦仁助両氏の世話で、明治十六年六月に細島から三戸(井手庄五郎・日高八五郎・宇田津儀助)が移住して開かれた地区である。瀬も多く、魚も多かったためか、またたく間に千人ほどの集落になった。(以上、大橋健市氏の説明)
このため生活習慣の大部分は細島と深く関係している。盆踊りも棒踊りも細島から移住した人々によって伝えられた芸能である。通浜の盆踊りは、三つの踊りで構成される。それは「佐伯踊り」「細島踊り」「通浜踊り(ツッタツッタ)」と呼ばれている。この名称からもその伝承経路は明かであろう。
七 類似芸能
宮崎県内における棒踊りは、棒術系や薩摩の棒踊り系など様々であるが、山口保明氏は「呪術性や増殖儀礼と結びつくものに田の神踊(めしげ踊)(小林市)などがあり、歌舞伎踊の影響が見られるものに義士踊(西都市・佐土原町)などがあって、一層風流化がすすみ、盆踊りに踊られるものに通浜棒踊(川南町)などがある」(『宮崎県大百科事典』)と指摘している。藩制時代に日向国の文化の流入口であった細島の地元の芸能が風流化していくのも手伝ったのであろう。