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村上春樹さんの言葉たちと、その小説、あるいは、記憶について

No1:非現実を内包する現実を描き出す村上春樹さんの小説、あるいは、フィクションではない、小説ではない小説

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村上春樹さんの小説を、小説であるからという理由で、フィクションであると思ってはいけない。村上春樹さんのその小説という形式をしたフィクションの中には、幾つかの現実(事実)が組み込まれている。小説の題材として、テーマとして、そこに何かしらの現実(事実)が存在している、と言っているのではない。その小説の中には厳然として現実そのものが記述され存在している。

繰り返す、村上春樹さんの小説は、「現実が現実の本質のままに、現実そのもの」が描き出されている。そこに登場する不可解な登場人物や出来事の数々で作られる異世界は、小説を小説として成り立たせる道具(ツール)として、そこに現れているのではない。それは現実を現実のままに、その本質を描き出そうとした結果として、そうなってしまったものにすぎない。

なぜ、そうしたことになってしまうのか?

それは世界が、現実が、現実だけで構成されているからではないからだ。現実は現実だけで成り立ってはいない。現実はそれが現実として成立するために、その内部に非現実を必要としているのだ。現実は必然として、非現実を内包する。生が死をその中に内包しているのと同じように。

だから、人は村上春樹さんの小説に、これほどまでにこころを揺り動かされ、その世界に取り憑かれることになる。それは虚構(フィクション)の形をしているけれども、そこには、絵空事ではない、<わたしたちの現実>が描き出され存在しているからだ。人はその小説の中に<わたしたちの現実>を見つける。村上春樹さんの小説の中の異世界は異世界ではない。それは現実の中に、現実として、事実として、存在している現実の一部としての非現実だ。そこには、<わたしたちの現実>がそっくりそのまま本質を変えることなく存在している。読者はフィクションとしての物語を読んでいるのではなく、そこに<わたしの現実>を読んでしまうことになる。村上春樹さんの小説が人を引き付けて止まない理由がそこにある。

村上春樹さんの小説は、小説であって、小説ではない。

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No2:小説を書くために役に立つこと、村上春樹さんの場合、あるいは、記憶について

「小説を書き始めたときに役に立ったのは、そしてその後もずっと役に立ち続けたのは、それまでに浴びるように読んできた様々な本の「記憶」の集積だった。それは巨大な深い貯水池のようなもので、僕は必要に応じてそこから自分のための水を汲んでくることができた。もし、そのような集積が存在しなかったら、今までこうして小説を書き続けることはできなかっただろう。」(BRUTUS 2021年10月15日号 「うちの書棚から」より引用)
「本当に大事なものはモノではなく、身体の内側に染み込んだ記憶だ。心からそう思う。霊感とは記憶のことだと誰かが言った。」(同上)

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村上春樹さん御自身の言葉によると、村上さんは、その小説の創作の源泉が「浴びるように読んできた様々な本の「記憶」の集積」であると話されている。その記憶の集積を「巨大な深い貯水池のようなもの」とも言い表している。

それは、特別な難解な言葉ではなく、平明な言葉と言っていいのかもしれないが、村上春樹さんの小説の世界の成り立ちを理解するために、凄く重要な言葉だと私は思う。「巨大な深い貯水池のようなもの」である「本の「記憶」の集積」から水を汲み取るようにして生み出されたその作品。村上春樹さんの小説は記憶の集積から生まれ出たものなのだ。

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<(本の)記憶の集積の、本>

言葉が生まれ、それが本として記述され、その本が人によって読まれ、その記憶が集積し、それが新しい言葉を生み出し、新しい本として誕生する。言葉が本を媒介にして、人の間を行き交い、人が人であることの根拠である言葉がそうして引き継がれ新しい意味に更新され生き延びる。まるで、渡り鳥が世界を飛び越えるように。本が渡り鳥たち(言葉)の季節ごとの生息地のように存在する。そのことは本が紙の本であろうが、デジタル・ブックであろうが、何も変わることはない。人が言葉を書き、読み、記憶し、<本(ブック)>を作り出す限り。その本を巡る記憶の集積を辱め貶めることの無い限り。

<記憶の集積の貯水池から汲み上げられたものとしての小説>

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は村上春樹さんの小説家としての出発点(村上春樹さんがこの小説で、小説家として何をどのように書くべきか、その主題と方法を自覚したという意味において)と私は思っている。この小説を記憶の喪失と回復についての記憶を巡る物語と読むこともできるのかもしれない。それは村上春樹さんの小説家としての起点であり、その小説の起源でもある、と私は思う。

村上春樹さんの小説の持つその透明な静謐さは、その小説が記憶の集積から汲み取られたものであることから由来する必然なのかもしれない。記憶の集積の貯水池から汲み上げられるものとしての小説。

No3:わたしが持っているもの、あるいは、わたしの記憶について

わたしが持っているものは何だろうか?

そう思って、わたしは慌てて、わたしの体を点検し、わたしの周囲を見渡す。そして、気が付く。とても、簡単で、明瞭で、とても、具体的なことに。

わたしが持っているものは記憶しかない。

答えてしまえば、その問いそのものが愚かな虚栄に見えてしまうほど、シンプルで具体的で現実的な答え。その事実に、シンプルさに、わたしは驚いてしまう。人の形をしたものとして、この世界に誕生し、生き延び、無数の物質(マテリアル)を組み立て、その物質(マテリアル)の深い森を潜り抜けた果てにわたしにもたらされたもの、それが、ただひとつの記憶であるということ。

だが、しかし、その一方で、わたしはそのことに深く安堵してしまうのだ。そうか、わたしが持っているものは記憶しかないのだ、と。その記憶の輝きの中で、刻み込まれる光と影は、全て、わたしのものなのだ。それは、眩暈のするような歓びであり、そして、それは、鋭利な刃物で切り裂かれるような痛みでもある。長い時間と広大な空間の中で、悲しみと痛みと歓びと伴に、わたしが手に入れた唯一のもの。それが、記憶だ。わたしの手の中にあるものは、記憶だけなのだ。

そのわたしが持っている唯一のものは、それが記憶であるからこそ、

誰もそれを壊すことはできない。
誰もそれを傷付けることはできない。
誰もそれを奪うことはできない。

わたしからわたしの名前を剥奪することができるのかもしれない。しかし、わたしの記憶はわたしから誰も剥奪することはできない。それがわたしから剥がされる時、それは崩壊する。跡形もなく、一片の欠片も残すことなく。その記憶はわたしだけが所有することを許されたものなのだ。

これは恩寵なのだろうか?
それとも懲罰なのだろうか?

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の返歌でもある「海辺のカフカ」、カフカ少年が辿り着くその深い森は、記憶の集積でもある、と私は思う。

No4:記憶に形を与えることの楽しみ、あるいは、「村上春樹の私的読書案内」

「そしてそうやって手元に残されたモノたち、一冊一冊を手に取り、それについて短い口上を述べてゆく作業は思いのほか楽しかった。自分自身の中にある、これまで形を持たなかったいくつかの記憶に、僅かなりとも形を与えていけたみたいで。」(同上)

村上さんの書棚にある「(生き残っている)」51冊。「巨大な貯水池に流れ込んだ水源のほんの一部、ほんの一掬いに過ぎない」51冊の本についての短い口上。「本というモノにとくに執着はない」と言う村上さんの本を読むこと、本を手にすること、それらの本を巡る記憶の幸福感に包まれた美しい文章。

(冒頭に、ほんの少しだけ村上さんの自宅の書棚が写真で写し出されている。その書棚の清廉さが村上さんらしい。)

記憶に形を与えること、その楽しさが無条件に示される。

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No5:記憶に形を与える、その痛み、あるいは、正しく傷付くために

そして、もうひとつの記憶に形を与えることの意味について。
その痛みについて。

多くの取り戻すことができないことが、私には存在している。消え去ってしまった大切な記憶もそのひとつだ。私だけではないはずだ。誰もがそうであるのではないだろうか。あの瞬間、その時間。このことを私は忘れることはないだろうと思っていた事柄の多くが、激しい時の流れの濁流に飲み込まれて消え去って行く。あれほど強く私のこころの中心にあったものたちが、陽炎のように消え去り忘れ去って行く。忘れてしまったことさえ、気が付くこともなく、時の流れの中で流されて行く。

人は驚くほど、信じられないほど、大切なことを忘れてしまう。記憶はまるで指の間から零れ落ちる乾いた砂のように、人から失われて行く。それが如何に大切なものであろうと、如何に重要なものであろうとも。

まるで、それはあらかじめ失われるためにそれが存在していたかのように、それは失われてしまう。不可避的に、不可逆的に。

「形を持たなかったいくつかの記憶」

できることなら、そうした形を持たなかった記憶たちに、言葉によって、形を与えたいと思う。私はこれまでそうしたことをしてこなかった。意識的にも、無意識的にも。しかし、記憶を失われるままに、そのままに、自然のままにはしたくないと今では思っている。仮に、そこに、それが失われる理由と根拠が存在していたとしても、それが失われることが理に適った自然なことであったとしても。それが失われてしまう前に何かしらの形を与えるべきだと思っている。なぜなら、それが形を持つことは、「正しく傷付くこと」の為に必要なことかもしれないからだ。

「正しく傷付くこと」

この言葉は、村上春樹さんの小説の中の一文。村上春樹さんの短編小説集「女のいない男たち」を原作とする濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」の中のモチーフのひとつでもある。

追伸、村上主義者、あるいは、村上春樹さんのことのその続き

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BRUTUSで上下、二巻に渡って、村上春樹さんの特集。その(上)について。(黄金と銀で、、、これまた、なんでだろう?)

私は村上さんが翻訳された本と村上さんの小説を原作にしたバンド・デシネを除き、多分、村上春樹さんの小説とエッセイは、全部持っていて全部読んでいると思う。(Tシャツの話とクラッシク・レコードの話はまだですが)。近頃、誰にも言ったことはないけれども、私は<村上主義者>なのだ。(以前、<村上主義者>であることを告白した為、激しい迫害を受け、危うくジャンヌ・ダルクみたいに火刑にされそうになった。だから、私が<村上主義者>というのは秘密なのです。あまりにも偏見や先入観が多すぎて、げんなりしてしまうので、誰にも言わないことにしています。)

今回はBRUTUSの村上春樹さんの特集の(上)についての話だけ。(特集の(下)のBRUTUSは現在、読んでいる最中です。ちょっと驚くような発見もあったりしていて、、、そうなんだ、知らなかった。)

村上春樹さんの小説について少しだけ書いたけれども、とてもじゃあないれどもその全貌について書くことなど私にはできはしない。また、記憶についても、その深遠さについて私が語り切ることなんて、とてもじゃあないができはしない。

とは言っても、村上春樹さんについて、好きなことを書くのはそれはそれでどうしたって楽しいことであることにかわりはない。まだまだ、村上春樹さんについては書いても書いても、それが終わることはない。

ラジオも翻訳も短編小説集もいいけど、次の長編小説はまだなのかな?




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