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「心とはなにか」を領域横断の心理学で理解する。【認知心理学・精神分析・発達心理学・人間性心理学】(完全版)
みなさんいかがお過ごしでしょうか、トビタケです。
今まで「心」を扱う記事を書いてきました。心はどのようなものなのか、どのような働きを持っているのか考えたり、様々な資料から心・幸福について考察を重ねてきました。
しかしながら、そのどれもが学習を深めるための段階だったと考えております。つまり、心の全体像を示すものではなかったということです。
今回の記事では、図解を示しながら、何年も学習しないとわからないような「心の全体像」をすべて説明します。間違いなく今までの私の記事の中で最も読む価値があり、濃い内容になっています。
Webで「心とはなにか」と検索すると、ある記事では哲学的な議論のみが取り扱われており、またある記事では脳の部位の紹介がされています。
そのように、扱う学問領域によって捉え方は変わりますし、「心とはなにか」の答えの明確な答えというのは基本的にありません。しかしながら、心理学を領域横断で学習することで、納得可能な暫定の理解をすることはできます。
よって、本記事では
実験などで科学的に心が研究されてきた「知覚・認知心理学」や、心を治療する手がかりの少ない時代にジークムント・フロイトが創始した「精神分析」の「無意識と自我」、その精神分析から派生した様々な理論から現代の科学的な手法とも合わさった「発達心理学」や、精神分析派とは異なる視点から人間の心の回復と成長を考えた「人間性心理学」など。
それら、主流となる心理学理論から重要な概念をピックアップし、簡潔な表現でまとめます。また、「心」についての理解を深めた時点で、普段の生活の中で自分自身にどうしたらその理解を活かせるのかということもわかるようにしています。生きるための指針となるような内容だと思いますので、ぜひ読んでみていただきたいです。
本編:心とはなにか
心というのは、簡潔に言えば生物の「一個体」を周り(外界)から区別したとき、その生物の中で周りの情報を見て聞いて処理したり、内側の情報を外側に伝えたりする機能のことを言います。つまり、情報の流れが心です。
心はどのように情報を処理しているか
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図1の右上をご覧ください。まず、私たち一人ひとりには「感覚受容器」というものがついています。例えば「目」「耳」「皮膚」「内臓」などに備わっているのが感覚受容器で、今外界で何が起こっているのか認識するために情報を受け取る場所です。その際、私たちはワーキングメモリ(作業記憶)という心の中の表層のエリアで、今受け取っている情報が一体何なのかということを理解しようとします。
このとき、理解しようとしている自分自身、つまり「私」という存在は、「自我」という言葉で説明されます。今まで生きてきた「私」の歴史が、「自我」にとっての歴史です。「私=自我」が現在考えていること・感じていることなどはワーキングメモリ(作業記憶)の領域で処理されています。
ワーキングメモリ(作業記憶)に対して、外界から「外界の映像」や「音声・文字情報」が送られてきます。この外界からの情報の入口となるのは、目や耳などの感覚器官にある感覚受容器です。
また、ワーキングメモリ(作業記憶)に送られてきた外界の情報を理解するために、私たちの心の[自我・ワーキングメモリ]よりも奥の方にある「長期記憶(知識ベース/エピソード記憶)」から、内部の情報を引き出してきます。例えば、「CAT」という文字を認識する際に、知識ベースに貯蔵してある「C・A・Tの組み合わせでCATという1つの単語になる」「CATは猫という意味を持つ」というような情報を利用しながら、言語的理解をします。
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もう一つの例として、街を歩いていると10年ぶりに「佐藤」さんを見たという認知処理を考えてみましょう。高校で同級生だった「佐藤」さんは、昔と少し変わりましたが、どこか変わらない部分があります。それは、見た目の雰囲気や声、歩き方などかもしれません。
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そのような「佐藤」さんに対応する情報が、視覚や聴覚を通してワーキングメモリに入ってきます。それが、過去に認識していた「佐藤」さんの情報と照合されて、ボトムアップ(図3中央の上矢印)+トップダウン(図3中央の下矢印)の働きが合わさることで、「佐藤」さんという人物なのだと理解することができます。経験・知識・エピソード記憶として長期記憶に保存していたものを、久しぶりに参照したという認知処理の例です。
ここまでで、自我がワーキングメモリの領域で働いており、外部から受け取った情報(知覚処理)と蓄積された記憶からの情報で「認知処理」を行っているということがわかったと思います。
実は、心におけるこれらの「作業記憶」「長期記憶」よりさらに深層部分に、もう一つレイヤーがあります。それは、生物学的身体基盤です。これは簡単に言うと、どのような身体的・心理的な特徴を持って生まれてきたのかということを指します。人によって、遺伝情報とその発現の仕方は異なります。なので、感じ方や考え方、現実的な能力などについても、この初期設定の範囲内において私たちは「心」を発揮することができます。
欲求のはたらきと心の発達
逆に言えば、生まれ持ったこの「潜在的自己」をどこまで発揮することができるか、自分自身の力・欲求として感じることができるかというのが私たちにとっての課題となります。この生物学的身体基盤から来るエネルギーが、主に私たちの心の働きを支えています。今からその核となっている「基本的欲求」について説明します。
「心とはなにか」について、どのようにして心という仕組みが働いているのかを理解する上では、・心はどのように情報を処理しているか のところでの説明だけで事足りるかもしれません。また、これから「基本的欲求」「心の発達」「防衛機制」などについての説明をしていくと、「心がどのように働くのか」という話に加えて「どのように心と向き合うべきか」という主観的な話に自然と踏み込んでしまうこととなります。
また、客観的な心の働きを理解しようとしていくと、自然と「自我にバランスの取れた引き出しと能力をトレーニングさせるのがよい」ということや「どのようにして防衛機制と潜在的な自分の意欲(自己の実現の欲求)を観察し利用すればよいのか」という話に進んでいくことになります。なので、ここからの内容は1つの考え方としてこんなものがあるのかと受け止めていただけたら幸いです。
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私たちの心には、「基本的欲求」が備わっています。これらは、私たちの出生時から始まるものであり、「生理的欲求+アタッチメント欲求+安全欲求」については、人間が乳児の頃から芽生える欲求です。簡単に言うと、お腹が空くとミルクを飲ませられ、排泄するとおむつを替えてもらえ、虐待などが無く安全な環境で生育されることを求めます。また、重要な欲求としてアタッチメント欲求(愛着を求める欲求)があります。
ここでの愛着とは、「特定の対象に対して特別な情緒的結びつきを持つ」ことを意味し、特に乳児期から幼児期に、反応をし合うこと・接近すること・接触することなどを伴うコミュニケーションをし、自分が何かを求めたときにそれに応えてもらえる経験をすることで愛着が形成されます。
また、生理的欲求や安全欲求を叶えてくれる存在である養育者に対して、子どもはあたかも「自分の延長」であるかのように感じます。この背景には、出生前に母親の子宮で世界と自己が切り離されておらず、自分が何もしなくても栄養が供給され、「生きる」というのは外部と一体化した営みなのだと感じていたことが影響しています。出生前には常に安心感がありました。しかしながら出生時に母体から切り離され、自発的な「思考・行動」が求められると、大混乱に襲われ「幸福の終焉」を経験します。
そこで、自分の全存在を「無条件」の愛で受け入れてもらえる他者、つまり共感的理解を示してくれる養育者が必要なのです。子どもは、乳児期・幼児期の「他者から愛される喜び」を通し自分は居ていいのだと実感することで、外の世界を探索していくことができます。これを、「心の安全基地」と呼びます。
養育者から共感的理解を受け、安心できる感覚を内在化する(内側に取り込む)ことで、子どもは「外界志向(好奇心と失敗への耐性)」を獲得します。外へ外へと目を向け、興味・関心を育て、新しいことに挑戦し、困難や痛みがあっても自分を慰められるレジリエンス(心の回復力)が身につくのです。
養育者の共感的理解に基づくアタッチメントが欠けていたことが、生きている中での様々な場面における「心の痛み」に繋がっていることがよくあります。人間関係の中で例えば人を愛せない、他人に過剰な不信感を抱く、自分自身に嫌悪感を抱くなどのケースに繋がることが多いです。
ここで、ウィニコットの「ほどよい母親」という概念を紹介したいと思います。ある程度失敗をするような母親が、例えば「お腹が空いたけど待つ力、トイレトレーニングの成果、1人に耐えること」・「母親は別の存在であり自分自身でやらないといけないことがあるということ」を子どもに気づかせてくれることもあります。なので、養育者が精神的にプレッシャーを感じすぎること・完璧主義になる必要はないと思います。
しかしながら、異常性を感じるほどに「共感的理解」に欠けた養育者は子どもを明らかに傷つけます。自分も親に虐待を受けていたり、人間関係のトラウマがあるような養育者に多いのが、子どもに虐待をしてしまうことです。まず、身体的な虐待・暴力、育児放棄などの場合は、その程度に応じて子どもの生理的欲求や安全欲求が満たされなくなってしまいます。
このこと自体で、子どもはアタッチメント(愛着)欲求についても傷ついてしまうはずです。それでも養育者には愛されたいと思いながら、怯えた感情を抱えて日々を過ごします。また、身体的な虐待ではなく、精神的な虐待もあります。典型的なものとしては、慢性的に子どもを無視したり、自分の思うように子どもの心をコントロールしたりするものがあります。子どもの心を決めつけ自分の意見を植え付けるようなコミュニケーション、子どもの存在を否定するような言葉をかけること、子どもの話に全く関心を寄せないことなどです。
日常的な「無条件の受容・共感的理解」、生理的欲求・安全欲求・アタッチメント欲求をある程度満たされることで子どもは自分を信じて行動できるようになります。そのような心の仕組みがあります。
ぜひ一度、ご自身の幼少期について振り返ってみてください。心の痛みを抱えている場合は、何か小さなものでも基本的欲求に関連したトラウマ(心の痛みの原因)があったり、じわじわと心が傷ついていたことが過去にあるかもしれません。そこでは、様々な心の傷が掘り起こされるかもしれませんが、自身の心に自覚的になることで今まで見えていなかった何かが見えてくる可能性があります。
ご自身がお子さんを育てられている場合や、育てたという方は「自分が子どもに何を与えてあげられたのか」「何を与えてあげられなかったのか」を考えてみてもいいかもしれません。
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幼少期に生理的欲求・安全欲求・アタッチメント欲求の充足が必要であることを示しましたが、これらの欲求は幼少期以降にも繰り返し求められるものです。よって、これらの欲求を土台に、「所属欲求」「自己の実現の欲求」が育っていくことになります。
家庭内においては、養育者とのアタッチメントの関係が基盤となり、年齢が上がるにつれて家庭内の子どもとしての役割(小さな社会での現実能力)を身に着けます。所属欲求については後ほど触れますが、ここでは小さな社会における小さな所属欲求が芽生えます。
児童期に入ると、子どもは友人との時間を大事にし始めます。このとき、「外界志向」の傾向はだんだんと深まっていきます。人の心の発達段階において、学校に入学し、進学し、職場に就き、新たな社会に属し…というようにある程度までは外へ外へと探索をすることが多いです。
外へ外へと探索を行なう「外界志向」と、その外の世界に合わせる力「外界定着」の方法を学ぶようになります。
中学校に入学する前ほどから、特に今まで家庭内で保持していた「自分」像からの移行が始まります。ある集団の中に入ると、その中での自分の役割(ペルソナ)が形成されます。これは何に基づいたものかというと、「集合的自我」に基づいたものです。ある集団の構成員がそれぞれもともと持っている自我がありますが、そこに社会が生じた際に一定の「空気」のようなものが生まれます。「集合的自我」はその集団の風土のようなものです。そこに合わせようとし、特定の社会における自分の役割を模索することで、形成されるのがペルソナです。
「所属欲求」は、何かの社会に属し、その社会において構成員になりたい、集団の仲間になりたいという欲求です。それが特に学校において顕著となります。引っ越し、小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学(就職)、大学から就職など、違う社会との接点が生まれるような時期は、所属欲求が脅かされる危機であるのと同時に、新たな所属欲求が満たされる機会でもあります。そのため、周りに馴染めずに精神的な危機に陥ることもあれば、「この集団においては自分という人間を思う存分に発揮できる」という感覚になることもあります。
所属がうまくいく体験は、私たちの心に社会的な成功体験を覚えさせます。
また、家庭や学校、その他の社会に投げ込まれることで、人は「劣等性」「優越性」「他者の優越の取り入れ」「他者の理想化」などを体験することになります。いつも兄弟と比較され、劣等感コンプレックスを葛藤として抱えることや、逆に兄弟の真似をしたり、先生を理想と捉えてロールモデルとするようなこともあります。恋愛感情との付き合い方やパートナーシップ、失恋などの中で心に大きな転機があることも多いでしょう。他者の模倣や、他者との関係性も自我の行動学習に大きく影響するということです。
なにはともあれ、幼少期から児童期、青年期にかけて生理的欲求・安全欲求・アタッチメント欲求・所属欲求に向き合いながら、私たちは様々な性格と能力を身に着けます。性格と能力というのは、生まれ持った性質の上に経験が蓄積され、その上で形成される思考・感情・行動のパターンです。
ここで性格や能力についての説明をすることは意味が無いように感じられるかもしれませんが、最終的にここでの話を踏まえて伝えたいことがあるのでぜひ読み飛ばさずに一度確認してみてください。
例えば、養育者が必要以上に厳しいしつけをした場合、子どもは従順であらねばならないという「合わせる」機能を強めるかもしれないし、養育者の「厳しさ」という機能を知識と記憶のデータベースに深く刻み込み、そのパターンを再現するかもしれません。その結果、合わせる性格が強くなったり、批判的な性格が強くなったりする可能性があります。また、共感的・肯定的な理解を積極的に示してくれる「養育的」な優しさを持った親に育てられれば、そのような性格を摂取するかもしれません。
幼少期には、養育者との関係性よりは影響力が小さいことが多いですが、兄弟や友だち、他の大人などとのあらゆる関係性の中で、現在の性格と能力に影響する出来事が起こっています。
また、学校でのいじめや早期の受験におけるストレスなど様々な要因で所属欲求がくじかれ、外向きの心や外界に定着する心が育たないこともあるでしょう。このように、幼少期から社会生活にかけて、「経験からの学習」により人はそれぞれの性格と、その時々で現実に対応する能力を形成します。
性格とは「繰り返し行われる思考・感情・行動のパターン」のことです。これすなわち、その人らしさを表すものかもしれません。優しい人なのか、厳しい人なのかというようなものです。先天的な特徴の上に後天的な経験が乗ることで形成されるものですが、今までの自分としてのアイデンティティはそのままに、「(後ほど説明する)自己の実現の欲求」を基盤として「現実に対応する能力=引き出しから出し入れする力」を適切に身につけることで、より心の痛みを癒し、自分を発揮することに繋がります。
改めてですが、基本的欲求は生物学的身体基盤(潜在的自己)から湧いてくるエネルギーのことを指します。
図6の左側をご覧ください。人の心の中には自覚的な部分(自我とワーキングメモリなどの領域が主)と自覚的でない部分(長期記憶と心の先天的性質など)があります。普段、私たちが自覚できるのは目の前にある景色や音、自分が今考えていること、現在感じていることなどが主なものです。その中で、以前の記憶や学習した知識などについて、意識上で再生できるものもあります。また、心の深層部にはよっぽどのきっかけが無い限り思い出せない記憶や、無意識のうちに抑え込まれている欲求のエネルギーがあります。
防衛の解体と自己の実現
精神分析では、「防衛機制」という心の働きを説明しています。
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心の奥深くには、自覚できない領域が存在します(図6)。この領域は、長期記憶として蓄積された経験、生まれ持った気質、そして本能的な欲求などが混在する、心のダイナミクスが活発に動いている場所です。精神分析では、この領域で働く心の力動を「防衛機制」と呼びます。
防衛機制は、自我が心の安定を保つために無意識的に行う様々な操作です。受け入れがたい感情、思考、欲求などが意識に上がってくると、自我は不安を感じます。この不安から自身を守るために、防衛機制が発動するのです。防衛機制は、一時的には心の安定をもたらしますが、過剰に働くと心の成長を妨げたり、心のエネルギーをその領域に留めてしまったり、心の奥深くで力と力がぶつかり葛藤が常に起こることで心に痛みを抱えてしまうことがあります。
数ある防衛機制の中でも、特に重要なのが「抑圧」です。抑圧とは、苦痛な記憶、感情、欲求などを無意識の中に押し込める働きです。例えば、過去のトラウマ体験や、道徳的に許されないと感じる欲望などを、意識しないようにすることで、一時的に心の平安を保とうとします。
抑圧は、ワーキングメモリ(作業記憶)から無意識的に長期記憶の深層へ送られることで起こります。しかし、抑圧された記憶や感情は消え去るわけではなく、長期記憶の深層部に留まり、夢や無意識的な行動、身体症状などに影響を与えることがあります。
また、欲求が無意識の奥深くに過剰に抑圧され続けることで、心の問題が生じるとされています。これは、生まれながらに持つ根源的な欲求であり、図の中では生物学的身体基盤、最下部にあたります。これらの欲求は、無意識の領域に存在しており、現実で対応を行なう自我に対して様々な要求を突きつけます。
そこで、抑圧された欲求と合わせて、抑圧された記憶や感情についても心の奥へ奥へと追いやられます。自我には認識のできない長期記憶の深層部へと追いやられるのです。
自我は現実を認識しながら本能的欲求と外界からの要求の間でバランスを取る役割を担っていますが、「痛み」を避けるために、今ここで体験していることを無視することがあります。このうち、無意識に行われるものが「抑圧」と呼ばれます。意識的に行なうのは「抑制」という防衛機制です。
改めてですが、防衛機制はこの「自我」が不安に対処するために用いる手段です。例えば、幼少期に養育者から十分な愛情を受けられなかった経験を持つ人がいたとします。この経験は、長期記憶に「愛されたい」という強い欲求と、「愛されないかもしれない」という不安として刻まれます。成長後、人間関係において親密さを避けたり、過剰に相手に依存したりする行動が見られる場合、それは過去の経験が抑圧され、無意識のうちに影響を与えている可能性があります。この場合、抑圧は「愛されないかもしれない」という不安から自我を守る役割を果たしていますが、同時に健全な人間関係を築くことを妨げているとも言えます。その他にも、家庭・学校・複数の社会における様々な過去の経験の中で、欲求・感情・記憶などが関連する「抑圧」「抑制」が起こります。
これらは、よくも悪くもほぼ自動的に行なわれているものです。そして、心を守ってくれる重要な機能であり、それが時に毒となります。
その毒とは何か、端的に言うと「自己の実現の欲求」を阻害することです。
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ここまでで、人間には生理的欲求・安全欲求・アタッチメント欲求・所属欲求などの基本的欲求が備わっているということを説明しました。これらも含め、私たち一人ひとりが生まれ持ったこの心を発揮しようとする欲求を「自己の実現の欲求」と呼ぶことにします。
「自己の実現」というのは、単に目標を達成することではなく、「自分が発揮されている」という感覚を得ることであり、内側から湧き上がる意欲に従う自然な現象です。それは、例えばスポーツをする、歌を歌う、ダンスをする、作業に取り組む、本を読む、会話やプレゼンをする、など様々なシチュエーションで起こり得ることです。
この意欲の源泉は、生物学的身体基盤(潜在的自己と欲求、生まれ持った活動の力)です。幼少期から、外界への好奇心を感じるようになり、自分なりの現実に対応する能力を身に着け、様々な関心やタスクと向き合うことで内側から物事に取り組む意欲が湧き上がるようになります。
ここでカギとなる要素がいくつかあります。一つは、知的好奇心を含む好奇心。興味や関心を惹かれるもの。また、何かに取り組む中で、純粋に向上心を感じられることや、上達・得意になる・自然と上手にできる体験をすることです。さらに、自分の特性としての興味やクセを活かした行動で、他者に何かをしてあげられたときの「貢献感」も自然と内から湧くものです。
ここで、生涯をかけて自分という大きな縦軸と、他者という大きな横軸にそれぞれ厚みと広がりを持った「自己の実現」を果たすことを、人の心は求めます。自分にとっての意味が「縦方向」・「横方向」に成長することを求めるのです。
日々の生活の中で、内側から自然と大きな流れに乗って湧いてくる意欲や活力、現実能力の発揮を経験することが、「自己の実現の要請」を叶えることです。これは、潜在的自己が内側から出て来たいと主張しているときに、小さなことからでもいいのでそれに素直に応えることを端緒として、だんだんと広がっていくものです。
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しかしながら、基本的欲求から発展した「自己の実現の欲求」が芋づる式に引き出されていくのを、しばしば防衛機制が阻害します。防衛機制が働くのは、欲求・感情(不安等)・記憶・社会の規律などが無意識下で複雑に絡み合い、身動きができない状態になってしまうためです。
ここで今、現実能力の大半を担っている「防衛機制」、つまり無意識領域での心の働きを一度軽く解体することができれば新たな自分の側面に気づくことができるかもしれません。今まで強く固まってしまっていた記憶・自己の領域を柔軟でより多様な引き出しのあるものにすることができるかもしれません。防衛を解体するというのは、トラウマと向き合うということです。
心が守られていない状態で無意識を意識化しようとするのは危険です。なぜなら、今まで自己を防衛していた壁を取り壊すことで、過去の出来事や現在の状況における外部からの衝撃を痛みとして体験することになるからです。
ここで必要なのが、自己が崩壊しても自我が冷静に現実に対応し続けられるようにするトレーニングです。
まず一つに、外界へと探索をしていく際に自分の心に安心感を持たせられる訓練が必要です。アタッチメント欲求がくじかれた人や、複雑な状況において心にダメージを受けた人は、もう何かに向き合うことはできないと感じているかもしれません。その中で、一歩足を踏み出しスモールステップで「大丈夫だ」「挑戦することができる」という体験を何度かする必要があります。
二つ目は、協調能力の訓練です。過去に、社会や集団に対して順応することに対して挫折感を覚えたり、境遇のせいでうまく行かなかったりした場合に、所属欲求がくじかれた経験がある方も多いと思います。ここでは、自己主張の力や合わせる力、養育的に(共感的理解に基づいた視点で)対応する力や批判的に(自分の譲れないことや守りたいこと、軸を中心に)対応する力などがバランス良くトレーニングされることで前に進むことができます。
三つ目は、よく話を聞いてくれる人を見つけることです。人は、他者との関係性の中で癒やされます。そのままの自分の思いや考えを否定せずに、共感的な理解で接してくれる人がいると、自分の気持ちを確かめながら前に進むことができます。カウンセリングを受けるのも最善の手です。そのハードルが高ければ、スマホ版ChatGPTの無料音声対話機能で「カウンセリングを受けたい」と言えば話を聞いてくれます。これは、自分の内面に「心の安全基地」を作るための訓練です。
生まれてから今年まで生きてきた中で、能力や性格の面から、どこかかしら対応する能力の弱い部分があると思います。心のバランスを保つために、そこを補強することが求められます。これは、もちろんできないことをできるようにするという意味でもありますが、強みを増強することで能力の弱い部分を補い、心が怯えずにいられるようにするというアプローチを取ることもできます。
そのトレーニングを引っ張っていくのは、現実を認識し対応する主体である「自我」です。心の最前線を張っている「自我」は、心のシステムの中で唯一冷静に客観的な視点を持って動くことのできる存在です。ワーキングメモリの中で、状況を把握しながらどうすればよいか考え、行動に移すことができる現実能力の持ち主なんです。
自我に何を覚えさせればいいのかというと、自分を社会や向き合うべきタスクに露出させ、その中で「欲求」「感情」「思考」「共感」「批判」「主張する力」「外を探索しようとすること」「外に順応しようとすること」などをメタ認知することです。メタ認知というのは、自分の思考や感情、行動などをもう1人の俯瞰的な視点にいる自分が観察することを言います。
この特訓を行なうことで、欲求と外部や記憶の制約を調停し、自分の内側にあるエネルギーを殺さずに「昇華」させることへ繋がります。本来、心のベースにある生体の欲求・感情と、保存されている記憶、自我とワーキングメモリはそれぞれ単独の生き物ではなく「自己」として能力を発揮するべきまとまりです。そのエネルギーの方向が今までは分裂していたのを、一つに統合するのが「自己の実現」です。
このようにトレーニングをしているうちに、これらの欲求や感情、思考、諸機能がそこにあること、出てきていることを「客観的に観察」し、見つめながら取捨選択をして「利用」することができるようになっていきます。自己の統率者であり、現実能力を発揮することができる「自我」が心の深層部から湧き上がってくるエネルギーを受けながら力を出力することができる。
このように、自我が心の様々なパターンを把握し支配下に置き、最大限に意欲と能力を引き出すことのできる人間像が、私の心理学の目指すところです。そうすることで、心の自覚的でない部分を徐々に「雪解け」させていくことができ、だんだんと自覚していきながら過去の痛みや内面の影に向き合えるようになっていきます。今まで心を固着化させていた無意識の「防衛機制」に頼らなくてもよくなったとき、弱みや痛みも自分に溶けていきます。
そして自我が成熟していき、老齢となり、社会的なペルソナや今まで拠り所にしていたタイトルを手放したときに「自分の人生はなんだったのか」ということに向き合うとき、すべての心の営みは自我の捉えた人生の答えへと収束するのです。
参考文献
『カウンセリングの理論』国分康孝
『パワーオブダンス:統合セラピーの地図』向後善之
『カウンセリングの理論上:三大アプローチと自己成長論』諸富祥彦
『カウンセリングの理論下:力動論・認知行動論・システム論』諸富祥彦
『考えるヒト』養老孟司
『わかるカウンセリング:自己心理学をベースとした統合的カウンセリング』向後善之
『カウンセリングの技法』国分康孝
『本当の仕事』榎本英剛
『新しい交流分析の実際:TA・ゲシュタルト療法の試み』杉田峰康
『完全なる人間:魂のめざすもの』アブラハム・H・マスロー 上田吉一 訳
『フロー体験:喜びの現象学』M・チクセントミハイ 今村裕明 訳
『ポジティブ心理学が教えてくれる「ほんものの幸せ」の見つけ方:とっておきの強みを生かす』マーティン・セリグマン 小林裕子 訳
『ポジティブ心理学の挑戦:幸福から持続的幸福へ』マーティン・セリグマン 宇野カオリ 訳
『回想法とライフレビュー』野村豊子