ともやの思考整理note

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁」の運営|誰かの「やってみたい!」をサポートするのが好き|MBTI診断:擁護者| 特技:物事の体系化と整理整頓|趣味:ピアノ|本業:新エネルギーの安全・リスクの研究

ともやの思考整理note

博士(工学)取得の28歳。探究学習コミュニティ「探究横丁」の運営|誰かの「やってみたい!」をサポートするのが好き|MBTI診断:擁護者| 特技:物事の体系化と整理整頓|趣味:ピアノ|本業:新エネルギーの安全・リスクの研究

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リニューアルします。

皆さまこんにちは。ともやと申します。 この度、本noteをリニューアルすることにしました。私としてはやや大きい決断として、顔出しの発信に切り替えていこうと思います。 というのも、まもなく30代を迎えるにあたって、これまで以上に己の力でこの世界を生き抜いていかなくてはいけないと思ったからです。それは必ずしも「このnote記事を収益化して稼げるようになるぞ!」という類の宣言を意味するものではなく、自分自身の社会的立場を改めて設定し、あくまで自分自身に対して自律の意識を持つため

    • 改めて自己紹介します。

      こんにちは。ともやです。 リニューアルしてから、どういう内容をどういう文体で書いていこうかといろいろ考えたものの、最終的には「発信を継続しないと意味がない」と思ったので、自分にとって自然な形の文章表現をしていくことにします。 そのときどきの自分の気分や影響を受けているものによって、書き方や言い回しや表現や思想が変わって、「この記事を書いてるのは本当に同一人物なのか?」となる可能性もありますが、それも含めて自分の人間性だと捉えて、長い目で見て自分らしい発信ができるようにして

      • 自己受容は謙虚さの表れ。

        以前と同じようにセラピー的文章を書いて投稿しているはずなのだが、アイコンを顔出ししたことによって、なぜか急激に妙な恥ずかしさを感じている。こんな顔をしたやつが大真面目にこんな青臭いこと(?)を書いていることについて、なんだかとんでもないことをしてしまっているのではないか、という気がしてくる。 しかし、実際に私の脳内で駆け巡っている思考をただ書き並べているだけなので、これはどうしようもないのだ。こんな調子ではリニューアルしたことにならないなぁと思いつつ、嘘をついても仕方ないし

        • 自己受容こそが出発点。

          リニューアルします、と言っておきながら、これまでと似たような記事を書くことを許していただきたい。 というのも、私にとってこのnoteは一種のセラピーでもあるからだ。これまでも、何か思考が整理できないときに、あーでもないこーでもないと色々考えたことをとにかく書き連ねることによって、自分自身を保ってきたのだ。 そしてまさに今もそういう状態にいる。だから書く。 私は今、個人的には大きな岐路に立たされていると思っている。これから何をしてどのように生きていくのか(べきなのか)、そ

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        リニューアルします。

          暇人として気高く生きることもできるかもしれないのです。

          先日、「私は暇人になりたい」と書いた。 この自分なりの発見によって、ここ数年間の暗闇を歩く身の入らない生活に対して一筋の光が見えたのは間違いないのだが、それで完全に納得できていないところもある。それは、たとえそういう私であったとしても、果たすべき何らかの社会的責任がある気もしているからだ。 もちろん、私がここで主張した「暇人」という概念が、社会的責任を果たすことと矛盾するわけではない。私の「暇人」の定義は、その論理的出発点を「他者貢献」に置いている点に特徴がある(と思って

          暇人として気高く生きることもできるかもしれないのです。

          どうしても早起きできなくなるのです。

          寒い時期になってきた。 本当は早起きして何かしら活動したいところだけど、なかなか起き上がれないのが常だ。 私はこの3年ほど、冬の時期になると春から夏秋にかけて継続してきた朝のルーティンを失うことを繰り返している。それをなんとかしようと色々な施策を取ったこともあるが、見事に全て失敗してきた。 3年間やって3度再現性があるということは、おそらく根本原因にアプローチできていないということだろう。 なぜ私は、小中学生の頃は夏でも冬でも関係なく、律儀に早起き(というか、起床時間

          どうしても早起きできなくなるのです。

          私は暇人になりたいのです。

          この数年間、なんだか人生そのものに身が入らない、という生活を続けていた。博士課程を修了して助教として勤め始めたものの、仕事としての作業はするが、なんだか研究のやる気も出ず、よくわからない気分がずっと続いていた。 しかしその間、決して何もしなかったわけではない。その気持ち悪さの正体は一体何なのだろうかと考えて、自分にとって新しい経験をしたり、新しい考え方を取り入れたりしながら、考えて考えて苦しみのたうち回り、それでも必死で考えて考え抜いた。 そして、ここにきてようやく1つの

          私は暇人になりたいのです。

          知らない飲食店に入る心地良さを覚えたのです。

          昔は何か新しいことを始めるのに腰が重く、なかなかすぐに行動できないタイプだった。 ここ数年はそれを改善するために、小さい意思決定において少しでも新しいものを選択する癖をつけようと努力している。 その一環が、各地のカフェや飲食店の選択である。 外出先で昼食を食べたり、少し空き時間ができてPC作業をするときなど、少し時間に余裕があるときはなるべく、どこにでもあるチェーン店ではなく、その地域にしかないローカル店や、地元の方が経営しているこじんまりとしたお店に入るようにしている

          知らない飲食店に入る心地良さを覚えたのです。

          波風立てずに生きていきがちなのです。

          波風立てないで生きていきたい、と思ったりする。 それは、私が個人的特性として調和を志向する人間だからだ。 これについて改めて書いてみようと思ったのは、そういう自己分析的な問いがないところで、「あ、今自分はこういう行動をとった、ということはやはり調和を大事にしているのだろう」とふと思い当たったからだ。 もし仮に「もっと波風立てても良いのだ」と言われたとしても、波風立てないで生きていくと思う。逆に「波風立てて生きていかねばならない」と言われたら、とても生きづらいと思う。

          波風立てずに生きていきがちなのです。

          資金提供も大事な仕事なのです。

          とある繋がりで、ある研究開発法人に総合職として来年の4月から就職することになった子と話す機会があった。 こうした研究開発法人は、研究組織を持ち自ら研究成果を挙げる場合もあれば、大学研究者をはじめとする研究者たちに研究資金を提供し、関連する何らかの研究成果を出してもらう立場になる場合もある。我々研究者は、そうした研究資金を提供してくださる方々がいるから、研究を継続できるのである。 その学生は専門職ではなく、総合職就職らしいので、直接的に研究開発に携わるわけではないらしいのだ

          資金提供も大事な仕事なのです。

          冷めた心が少しだけ温められたのです。

          先日、同じ大学の近い組織に所属する同い年くらいの若手研究者どうし4名で食事をする機会があった。そのうちの1人がベトナム出身の先生で、彼が自宅に招いてベトナム料理を振る舞ってくれるというのだ。 私と他の2名で彼のお宅にお邪魔すると、部屋には山盛りになった牛・豚・鶏肉と、米粉でできた麺とスープなどがところ狭しと並んでいた。 その食事を頂きながら、私は少し懐かしい気持ちになっていた。というのも、実は私が初めて行った海外がベトナムだったからだ。 大学4年の頃、研究室のゼミ合宿と

          冷めた心が少しだけ温められたのです。

          広い空間の中で思考したいのです。

          先日ふいに遠出がしたい気分になって、新幹線に乗って出かけた。 いつも新幹線に乗るとき私は、いつも決まって、進行方向に向かって車両の後方の席を選ぶ。 これまでは何となくそちらの方が好きだなと思って選んでいたのだが、席に座ってぼんやりと考えているときに、その理由に思い至った。 それは、おそらく自分の視界に入る領域が空間的に広いから、というものだ。 車両の前方に座った場合、自分の視界には自分より前方の席と壁やドアが迫ってくる。この感覚を想像してみると、私にとってはかなり圧迫

          広い空間の中で思考したいのです。

          理解されないけど自分だけ好きなことがあるのです。

          皆には理解されないだろうけど、自分だけが好きなことって、あるんだろうなぁと思う。どうせ理解されないのだからと思って言わないことがほとんどだから、それが本当に自分だけなのかどうかもわからないけど。 ギリ言えなくもない内容だけど、特に言うほどでもないことほど、その判定がつかない。 この際だから、私の例をいくつか挙げてみようと思う。 ①マクドナルドのドリンクの蓋などについている、中身が何かを示すためにペコッと凹ませるアレ(名前がわからない)を、そのペコッという感覚が好きでつい

          理解されないけど自分だけ好きなことがあるのです。

          継続的な取組の威力は大きいのです。

          毎日何かを継続することって、すごいことだし、すごく大事なことだなと思っている。 この「毎日コツコツ力」とでも言える力(本来は力や素質ではなく、それが可能なような環境をうまく作り出す技術だと思うが)は、短期間で目立った成果を生むことはないが、長い目で見たときに大きな威力を発揮するはずだと思う。 その継続的な取組によって自分自身が何かを得ることができるということを自分で実感してきたし、ただ継続しているという事実を伝えたときも周りの人たちの反応が良いことが多い。 地元地域での

          継続的な取組の威力は大きいのです。

          研究についてのボヤキを許してほしいのです。

          研究者として仕事をする立場として思っているボヤキを、的外れな可能性もあるがちょっとだけ書かせてほしい。 一般に研究者とは、自らの知的好奇心に従って知や真理を探究しながら、人類社会にとっての何らかの新しい知見をもたらすことが期待される存在である。 この定義のようなもの自体に対しての異論はないのだが、私のようなひねくれた人間としては、この定義を聞いたときに、妙な不納得感を覚えてしまう。 それは、アウトプットとして、常に「何か新しいもの」を要求されているような気がしてしまうか

          研究についてのボヤキを許してほしいのです。

          適切に心の整理をしたいのです。

          不思議だ。 人間は、自分が向かいたい人生の目的地も、そこに向かうための正攻法もある程度決まっているというのに、それを実行できないことがある。それは、本当に自分の心に正直になって決めた目的地であっても、先人たちから学んだ有力な正攻法であっても、である。どこかで心の整理がついていないからこそ、実行に移すことができないのだ。 その根本的な要因は何か。 おそらく、自己肯定感が低いからだ。自分に自信がないからだ。 これまでの私は、特にやりたいことがない状態で生きてきた。何となく

          適切に心の整理をしたいのです。