私は暇人になりたいのです。
この数年間、なんだか人生そのものに身が入らない、という生活を続けていた。博士課程を修了して助教として勤め始めたものの、仕事としての作業はするが、なんだか研究のやる気も出ず、よくわからない気分がずっと続いていた。
しかしその間、決して何もしなかったわけではない。その気持ち悪さの正体は一体何なのだろうかと考えて、自分にとって新しい経験をしたり、新しい考え方を取り入れたりしながら、考えて考えて苦しみのたうち回り、それでも必死で考えて考え抜いた。
そして、ここにきてようやく1つの解に辿り着いた気がする。
私はこれまでの人生を生きてきて、確かに様々な経験はしてきたものの、「これこそがやりたい」という何かに出会えたような感覚はしてこなかった。それは私が、自分自身の何らかの欲望を満たすためにポジティブな感覚で何かをする、という欲望達成型ではなく、こうはなりたくないとか、こうならないためにこうしよう、という危機回避型のマインドを持つ人間だったからだ。
そこで、だとしたらそういう「やりたいことがないヤツなりの生き方」っていうのもあり得るのではないか、ということに思い至った。
自分にとって強烈にやりたいことが無い一方で、他者の望みを助けることに対しては比較的自然に体が動くのであれば、その性質を存分に活かして生きていけば良いのではないか。
そんなときに思い出した1つの生き方が、「暇人」だ。
自分自身のことは当然自分で世話ができるという前提の上で、いつでも他者を助けるマインドを持っているような余裕を持った人間、それが「暇人」なのではないだろうか。
「私は暇人になりたい。」
このことについて、言葉の響きとしても、意味的にも、自分の中でかなりしっくりくる感覚がしている。
そういえば、昔も似たようなことを考えていたことがあったことを思い出した。
私は高校生の頃から半分ふざけて、しかし半分本気で、「人間になりたい」とよく言ってきた。それはなぜかというと、自分という人間が、自分が思う人間らしさの1つの要素であるところの「感性」や「愛」などを持ち合わせていないのではないか、という不安があったからだ。
当時の私は(今でもだが)理性的・合理的思考が支配的であり、小説を読んだり映画を観て感動することや、人やモノに対して愛着を持つことなど、合理性の外にあることを自分のものにすることができていない、というコンプレックスが常にあった。こうした感性や愛情を持ち合わせていない人間として生きることは、とてつもなく冷徹で非人間的な生き方なのではないか、と思い自己否定に陥っていた。
それから数年の時を経て大学生/大学院生として生きる過程の中で、私のような人間でも何かに「感動する」という、感性が発動するような経験をいくつかすることができた。そのときは、「あぁ、これが本当に『心が動く』ということなのかもしれない」と感じたことを今でも覚えている。
また、「愛」についても、博士研究に対する取り組みを通してその意味を自分なりに理解して解釈し、実践を通して腹落ちできたような気がした。「愛すること」とは「意味を与えること」であり、どこにでもいる誰かを自分にとって大事な誰かにすること、一見して価値のないように見えるものにも価値を与えること、であった。
こうした経験を振り返ってみると、もしかしたら自分もようやく、あのとき言っていた「人間」というものになれているのではないか、という思いがしてきた。自分のコンプレックスを、様々な学びを経て乗り越えたのだ。
ところが、その直後に次なる壁にぶち当たった。
「人間」になることができた私は、一体どこへ向かうのか?
この、コンプレックスを乗り越えた到達感と同時に襲ってきた謎の虚無感に、私はずっと苦しめられていた。それが、冒頭の「人生に身が入らない」という言葉の意味だ。
そんな中で、次の新しい目標が見つかった。それが、「暇人になりたい」である。ようやく晴れて「人間」になれた自分が、次の目標として「どのような人間になりたいか」という問いに答えるために、この「暇人」という表現を選んだのだ。つまり、なりたい人間像の解像度が上がったのだろう。
さらに今思い出したが、私が高校時代に一番最初にできた友達グループは「暇人会」という名前だった(今でもLINEグループがある)。由来としては、当時のテスト期間に部活が休みになって、勉強すべきときにも関わらず教室にダラダラ残ってだべっていた生徒たちの集まりだったので、それを称して「暇人会」と名付けられたのだ。誰が最初に言い始めたのかは今ではもはやわからないが、その「暇人」という響きに心地よさを感じていた自分がいたのは確かだ。
この「暇人になりたい」という自己理解に到達した今、気持ちがすごく晴れ晴れとしている。暗闇の中に一筋の光を見たような、そんな感覚だ。
私の中での「暇人」の暫定的定義は以下だ。
「能力とお金と時間と心に余裕があって、自分自身の最低限のこと以外は他者のために主体的にそれらを使うことができる人間」
自分自身のことは最低限で良い。その代わり、その余剰分を他者のために使うことによって幸福を得ながら生きていく。そんな生き方である。
しかし、これはいつか「自分こそがやりたいこと」に出会う可能性を完全に否定しているわけではない。それに出会うまでの間は「暇人」として、そういう出会いを受け止められる余裕を自分の中に用意しておくことが重要なのだ。
加えて、それは必ずしも「今すぐに」ということでもない。人生の中のある到達点の1つの形として「暇人」である状態を達成することを目指す、ということだ。暇人であるためには、それに向かって一定期間の準備と努力が必要なのである。
こうして、「暇人になりたい」を実現するために必要なことを合理的に考えていくと、当面やるべきことがパチパチとパズルをはめ込むように決まっていく感覚がする。少なくとも向かう方向性が決まっていれば、そこに向かうための方法論もある程度目途がつくし、もし1つのアプローチがうまくいかなくても、別の方法論を検討する余地もある。焦ったり絶望したりする必要も無いのだ。
この認識は、私にとって人生を前に進めるための重要な指針になるだろう。
※上記内容の関連記事(自分用)