自己受容は謙虚さの表れ。
以前と同じようにセラピー的文章を書いて投稿しているはずなのだが、アイコンを顔出ししたことによって、なぜか急激に妙な恥ずかしさを感じている。こんな顔をしたやつが大真面目にこんな青臭いこと(?)を書いていることについて、なんだかとんでもないことをしてしまっているのではないか、という気がしてくる。
しかし、実際に私の脳内で駆け巡っている思考をただ書き並べているだけなので、これはどうしようもないのだ。こんな調子ではリニューアルしたことにならないなぁと思いつつ、嘘をついても仕方ないし、こうしたセラピーも大事なので、自分の気持ちに正直に書くしかない。
前回は「自己受容こそが出発点」と書いたが、これは本当にそうだと私は考えている。
数年前までは、もう少し厳しい、違う言葉でこのことを表現していた。
私が学部4年生のときに研究室に所属して研究活動を始めて以降しばらくしてから、自分自身の無知と無能を肌で感じることになり、圧倒的に自己肯定感を失った私は、そこからやっと本当の意味で学び始めることができた気がした。
そのときに得られた私なりの発見がこれだ。
「自分をクズだと認めることではじめて前に進むことができる」
その当時は本当に自分をとことん責めていた(まぁ今でもかもしれない)ので、このような表現を選ぶしかなかった。しかし、これを私のことを全く知らない人にいきなり話すとさすがにぎょっとされそうなので、先の表現に改めることにした。
私のようにネガティブに考えやすい人間であっても本当は自己否定などする必要は無い。自己否定をしないことは確かに大事なことだ。
しかし、それすなわち「自己肯定」ではないことも明確にしておく必要があると思う。
積極的な自己肯定は、自分自身に対する過信を生む可能性がある。
もちろん、発展途上のうちはそれでも良い。まだ実力も実績も無いような状態のときには、いわゆる「素敵な勘違い」をすることによって夢や目標に向けて大きく前進することができる。
しかし、ある程度大人になって実力や実績を問われるようになってきたら、自分のことについて可能な限り客観的に捉えて、謙虚に生きていく必要があると思う。(いくつになっても「素敵な勘違い」をしていいじゃない、と主張する人を私は否定するつもりはない。大変素晴らしいことだし、私だって本当ならそうありたい。ただ私が、どうしてもそのような楽観性を持てない人間なだけだ。)
だから、私は積極的に自己肯定はしない。
かといって、過度な自己否定に陥るのも問題だ。
大事なのは謙虚さだ。常に慎重に自己を客観的に見る努力をし、自己分析によってその解像度を高め、自分の個人的特性を含む人間的総体を受け入れる「自己受容」を大事にしたいと思っている。
こうして結局リニューアル前と同じようなことを書いてしまっているので、次回こそは改めて自己紹介をする記事を投稿しようと思います。