takako

親から受けた暴力によって成人後も苦しんでいる者です。苦しかった過去を書き起こして現状に向き合おうとしています。

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親から受けた暴力によって成人後も苦しんでいる者です。苦しかった過去を書き起こして現状に向き合おうとしています。

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02.助けられた家庭内暴力相談先について

社会人になって数年経過して親の暴力から逃れるために親の支配下から抜け出し、身を隠して、絶縁という選択肢を取りました。 詳細は省きますが、その後、人づてに身の危険を感じるような暴力的な脅迫を受けました。 そして同時にその影響が自分以外の人間にも及びました。 何をされるかわからないという恐怖から、私はパニックになりました。 まず身を守る必要があるけれど、相手がどう出てくるのかわからない、どこをどう守れば良いのかわからない、既に自分以外の人間にも危険が及んでしまっている、直接関

    • 22.両親との絶縁で起きた出来事

      成人し、社会人として家の外で働き、定期的な現金収入のある人間が、親(実家)から物理的に「逃げられない」と訴えていたとしたら、それを聞いた第三者は「怠惰なだけだ」もしくは「大袈裟に誇張している」と受け取るでしょうか。 客観的に見ると、通常あり得ない状況なのかもしれません。 親の庇護下にない成人について話す場合、「定期収入の範囲で食べていける程度の生活圏に身を置ける」という前提があれば、実家に留まるか離れるかを決定する主体は「本人の意志のみ」と一般的には考えられると思います。

      • 21.親から逃げた直後の心境

        無事に実家を出られて転居先へ向かう道中で私は泣き崩れました。 荷運び作業の最中に父親が殴り込んでくる危険性もあり、最初から最後まで張り詰めた緊迫感の中での作業だったため、緊張の糸が切れて無性に泣けてしまったのです。 もうこれからは日々の生活の中で急に降りかかってくる暴力に怯えて過ごさなくても良いのだと、明るい展望を描けるような、前向きな気持ちを持てるような、今までにはなかった希望が見えてきました。 それでも転居後すぐは、私の頭の中は真っ白でした。 親の元から逃げ出すことに

        • 20.親が示す子供との距離感に振り回される

          -1- 大人との接触の機会 我が家は、人との繋がりを全く持たない父親と、人との繋がりを持ちたくても持てなかった母親の影響からか、家庭全体で外界との関係性が希薄な傾向にありました。 子供が多い家でしたから、日々学校や習い事に関係する親同士(母親のみ)のやり取りはもちろん発生していましたが、それは必要最低限のものばかりです。 他家との家族ぐるみの付き合いは皆無で、両親のどちらか、もしくは共通のごく親しい友人が自宅を訪ねて来るような行事は一度も発生していませんし、頻繁に顔を合わ

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        02.助けられた家庭内暴力相談先について

          19.自分の「拒否」が他人を怒らせてしまうのではないかという恐怖

          私には、親の言動の悪影響から形成されたと考えられる習性や性向がいくつかあり、これらが大人になった今も自身を苦しめている側面が小さくありません。 (もちろん元々持って生まれた性質という可能性もあります。あらゆる問題の何もかもを親の責任だと決めつける思考の仕方は健全ではないと思いますので、慎重に見なければならないと思っています。) その中の一つが、他人に対して自分が示した単純な「拒否」の意思表示が、ただそれだけで相手を激怒させてしまうのではないか、という発生理由の汲み取り難い恐

          19.自分の「拒否」が他人を怒らせてしまうのではないかという恐怖

          18.人生で初めて聞いた自分への陰口は「親から」だった

          最初の鉢合わせがいつだったのか、正確には覚えていません。 小学校高学年辺りだったと記憶しています。 -1- 最初の衝撃-1.1- 初めて聞いた陰口 ある日、夜中に目を覚ましました。 眠りが深い傾向にある私には珍しいことで、朝の起床時刻より前に起きてしまうのは、体調不良で寝込んでいて睡眠の波が不規則になっている時ぐらいでした。 なぜ自分が急に目を覚ましたのかわかりませんでしたが、寝ぼけた状態のまま寝室を出ようとして、居間から聞こえてくる両親の話し声に気づき、怖くなって動き

          18.人生で初めて聞いた自分への陰口は「親から」だった

          17.父親にとって子供は「目障り」な存在だったのだろうか

          私は長年、父親が子供に対して時に暴力を伴う厳しい姿勢で接していたのは、次の理由からだと分析していました。 <1> 子供を育てなくてはならないという父親としての責務から <2> 父親自身の心理的な問題を解消するため(機嫌が悪い,鬱憤晴らし,八つ当たり) しかし当時の父親の細かな所作を思い返してみると、これだけが理由ではないのかもしれないと思い至ります。 我が家では、日頃ひっきりなしに母親を呼ぶ子供の声がありました。 「お母さーん!○○ってどこだっけー?」 「お母さーん!明

          17.父親にとって子供は「目障り」な存在だったのだろうか

          16.子供への命令に言葉を使いたがらない父親

          父親として何か確たる方針があったのか、単に面倒だからそうなっていたのかは不明ですが、昔から父親は言葉を使わない形の命令にこだわっていました。 これは、普通行われるような子供の教育のための指導や指示とは明確に異なっており、目的が「父親のみが利益を得ること」で、更に「どれだけ徹底的に相手を父親の意に沿わせられるか」に重きが置かれている点が特徴でした。 口調はかなり強い調子で、文章は端的な命令文であり、基本的に聞き直しが許されないものを指します。 対象者は母親と子供全員でした。

          16.子供への命令に言葉を使いたがらない父親

          15.子供が何をしていても叱る父親だった

          私が小学生になった辺りから始まったと思います。 弟たちも同様の対応をされていたため、私だけが特別に父親から目の敵にされていたわけではありません。 もちろん、子供が学校の宿題や家事手伝いなどの「やらなければならない作業」を片づけずに、ゲームをしたりテレビを見たりして遊び惚けていれば叱られて当然です。どこの家庭でも同じような対応をしていると思います。私自身、親との約束を破る行動をして叱られた場合は自分が悪いのだと認識できていました。 そのような一般的な基準で叱られる場合もあっ

          15.子供が何をしていても叱る父親だった

          14.家族の旅行はいつも怒声で始まるため嫌いだった

          -1- 我が家の旅行の方針 家計管理を担う母親の方針によって、宿泊を伴う家族旅行は禁止、あっても最小限とすることとなっていたため、家族全員で宿泊旅行をしたのは(法事などの娯楽ではない目的の場合を除けば)人生で一度きりでした。 旅先を決める段階から子供側の要望を聞き入れてもらえる雰囲気に乏しく、周りの家で頻繁にしているような国内外への宿泊旅行は敬遠されていたものの、母親は子供たちのために金銭的負担の少ない日帰り旅行を増やしてやろうと最大限の努力をしてくれていました。 山へ行

          14.家族の旅行はいつも怒声で始まるため嫌いだった

          13.なぜ同級生たちが早く帰りたがるのか理解できなかった

          私の人生で最も活発に遊んだのは小学生時代でした。 学校から帰宅するなり外へ飛び出し、体力が続くまで力いっぱい走り回り、まるで野生動物のように全身を目いっぱい使って遊ぶ日もあれば、友人宅のテレビゲームで遊ばせてもらったり、読書にのめり込んで外へ出ない日もあったりと、要は(習い事のない日は)子供の特権として許された「遊びが仕事」を実現していた日々だったと思います。 そこに何も難しい思考などなく、ただただ目の前の対象に夢中になっていただけであったことは事実でしたが、私が積極的に外

          13.なぜ同級生たちが早く帰りたがるのか理解できなかった

          12.子供は親の「老後保証書類」だった

          子供時代に親から面と向かって「お前たち子供は書類だ」と明確な言葉にされたわけではありません。 日頃、父親はしつこいほど繰り返し 「子供は親への感謝を最大限に示せ」 「子供の方から親の意図を察しろ」 「親のどんな言動にもまずありがたがれ」 という主張をぶつけてきました。 成人後に、父親から改めて口に出して 「子供っていうのは親の所有物だから」 と親が子供を「物扱い」しても良いと父親が考えていた根拠を説明していましたが、少なくとも私が子供の時には直接その説明を受けることはなか

          12.子供は親の「老後保証書類」だった

          11.家族の道化になろうとした子供

          我が家は常に騒々しい家でした。 その時々で家族の誰が欠けていようとも、父親さえ在宅していれば、日常的に屋外へ響き渡るほどの怒号や泣き叫び声に溢れ、何事もなく平穏に終えられる日は皆無だった、と言い切ってしまえるほど騒々しい家でした。 田舎の戸建てで、家屋と家屋の距離が近くなかったことが不幸中の幸いですが、家の外まで漏れていた騒音の影響が周囲へなかったはずもなく、酷い近所迷惑を振り撒いていた家には変わりありません。 稀に父親が宿泊を伴う出張などの用事で家を空ける日があり、その

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          10.自分だけ母親から無視される現実が受け入れられなかった子供時代

          母親からあからさまに無視され始めたのがいつだったのか、正確には覚えていません。 私が小学校中学年になった辺りから始まったように記憶しています。 私は家族の中でも同年代の子供の中でも多弁な方だったのですが、常に賑やかで明るい子供だったわけではなく、朗らかで闊達な面と物静かで沈んだ面とを頻繁に行き来するような、両極端な性向を見せていた子供でした。 両親は、じっくりと腰を落ち着けた子供との対話を重視しない(できない)傾向にあり、常に忙しい母親が私の話し相手になってくれるのは僅か

          10.自分だけ母親から無視される現実が受け入れられなかった子供時代

          09.同じ親の暴力を受けたきょうだいは仲間なのか

          はっきりとした始まりは覚えていないのですが、私が中学生から高校生の辺りで、弟たちと「父親の(子供や母親に対する)言動の酷さ」について、事あるごとに語り合うようになりました。それまで姉と弟で特定の対象について語り合う機会も関係性もなかったところに、突如お互い「うちの親は酷い」という意見の一致を見るようになったのです。 私たちきょうだいは、小さな頃から一緒に遊ぶこともあれば、くだらない内容で喧嘩をすることもそれなりにある、特別仲が良いわけでも悪いわけでもない、ごく普通のきょうだ

          09.同じ親の暴力を受けたきょうだいは仲間なのか

          08.親が「人の目を見て話せ」と口にしていた時

          自分で認識したのが何歳頃だったのかは覚えていませんが、私は子供の頃から人と目を合わせることが苦手な人間でした。 制御不能な激しい拒否感ではなく、「何となく」程度のものです。意識して頑張れば目を合わせられるけれど、自分にとっては目を合わせない状態が「自然」で、目を合わせる状態の方が「不自然」だと感じていたほどには苦手な行為でした。 そう自分のことを俯瞰できた時も、なぜそのような性質を持っているのかという疑問を持つには至りませんでした。 身の周りにも自分と同じような苦手意識を持

          08.親が「人の目を見て話せ」と口にしていた時