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09.同じ親の暴力を受けたきょうだいは仲間なのか

はっきりとした始まりは覚えていないのですが、私が中学生から高校生の辺りで、弟たちと「父親の(子供や母親に対する)言動の酷さ」について、事あるごとに語り合うようになりました。それまで姉と弟で特定の対象について語り合う機会も関係性もなかったところに、突如お互い「うちの親は酷い」という意見の一致を見るようになったのです。

私たちきょうだいは、小さな頃から一緒に遊ぶこともあれば、くだらない内容で喧嘩をすることもそれなりにある、特別仲が良いわけでも悪いわけでもない、ごく普通のきょうだいでした。
それが、それまで個々に対峙していた父親という「己の敵」を「共通の敵」として認識し合えた瞬間に、お互いを戦友と認め合える仲になったのです。よくある「友人同士で他人の陰口を叩いて仲間意識を持つ」現象と根は似たようなものだと思います。

弟たちも私と同様に常日頃から「父親の気分次第で殴られるか笑って済まされるか決まる」状況に理不尽を感じていました。
いつも家庭の中にも外の世界にも助けを求める先がなく、苦しんできた私にとって、相手が年下の弟であっても共感は救いになりました。
親の言動がどれだけ矛盾しているか、どのような理不尽を投げつけてくるのか、どんなに不誠実か、お互いに指摘し合ったり回顧したりして「あれは酷いよね」と共感し合うのです。親の幼稚さを笑い飛ばし合い、相手の怒りを代弁してやり、家の中で発生する苦しみを軽減させる助けになりました。

しかし、ある時から、きょうだい間に亀裂が入り始めます。

「お前はあっち(親)側だろ?」
「誰が最も親から優遇されてるのか」
「お前の苦しみは大したことない」

私たちは同じものを見ておらず、同じ方向を見ていませんでした。
私が感じ取っていた「共感」は紛い物でした。
成長して大人になるにつれて、きょうだい間の「親に対する認識」が思っていたよりも大きく乖離していることを知ったのです。

私と弟たちは別々の人間ではあるけれど、住居を同じくし、同じような成育環境下にあって、同一の敵と脅威と闘っている、だから少なくとも、その敵に対する負の感情や反発心は似たようなものを持っているのだと捉えていました。
そんなわけがありません。完全一致などするわけがないのです。

私たち子供は全員それぞれ、親から受けていた扱いに大小様々な差がありました。
子供によって、母親から特に優遇されていた子供、父親から特に酷く冷遇されていた子供、何かと注力されていた子供、あまり注力されていなかった子供、それぞれ扱いは微妙に異なっていました。
私一人だけが受けていた暴力もありましたが、私だけが優遇されていた部分もあったと思います。私の見えていない範囲で、弟の誰かが何らかの新たな理不尽を被っていた可能性もあります。

同じ親を持つ子供同士、お互いを深く理解し合っていると錯覚していました。
共通の敵を前にして、皆同じ気持ちで理不尽な暴力と闘っていたのだと勝手に思い込み、心は一つだと勘違いしたのです。

私が社会人になった頃には、弟たちを大事に思う気持ちはあれど、心の底から信用することはできなくなってしまいました。

親から向けられる逃げ場のない暴力から目を背けるために、手と手を取り合って励まし合える仲間だとばかり思っていましたから、心の拠り所がなくなったショックは大きいものでした。

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