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16.子供への命令に言葉を使いたがらない父親

父親として何か確たる方針があったのか、単に面倒だからそうなっていたのかは不明ですが、昔から父親は言葉を使わない形の命令にこだわっていました。

これは、普通行われるような子供の教育のための指導や指示とは明確に異なっており、目的が「父親のみが利益を得ること」で、更に「どれだけ徹底的に相手を父親の意に沿わせられるか」に重きが置かれている点が特徴でした。
口調はかなり強い調子で、文章は端的な命令文であり、基本的に聞き直しが許されないものを指します。
対象者は母親と子供全員でした。

頻繁に発生していた命令は次のようなものです。

・物を取って来させる
・物を処理させる(移動や廃棄など)
・お茶汲みをさせる
・食事中の給仕をさせる
・父親の行動の介助をさせる

内容としては取るに足らない雑事ばかりですが、子供の私にとって中身の薄さは関係ありません。自分に何が降りかかってくるか、という部分が最も重要な観点になります。父親の意に沿わない行動を起こせば、最終的に嫌な思いをするのは子供側です。

父親から物を「取って来い」と命令された際、私が毎回困らされたのが、物の「名称」と「場所」を言葉にしてもらえなかった点でした。

命令を受ける対象は子供全員で、父親の気分で無作為に一人が選ばれます。
流れは、
(1) 離れたところにいる子供を「おい!」と呼びつける
(2) 目の前の一方向を指差し「あれを取れ」と言う
のみでしたが、辛うじて名称を教えてもらえたとしても具体的な場所は全く説明してもらえなかったため、結果は、すぐに動き出せずに叱られるか、一発で正解できず何度も間違えて叱られるか、のどちらかになりがちでした。

目の前に一つの物しか配置されていないのであれば、この指定方法でも問題はないのでしょう。しかし実際には、そんな単純な状況はほとんどなく、例えば雑多に積み重なった物の隙間にある文房具を指定されているとか、乱雑に散らばった書類の中から特定の文書を指定されているとか、具体的な説明をしてもらえなければ見つけ出せない状況ばかりでした。

何を指定されているのかわからず、父親へ「どれ?」「どこにあるの?」と問い返しても、父親は「指の方向をよく見ろ!」「何でわからないんだ!」「見ればわかるだろ!」と怒鳴るばかりで、詳細な情報を口にしません。
怒り出す前に、言葉で「棚の上から3段目の右から2番目に立て掛けてある青い厚い本」といった形で情報を伝えた方が、最も正確で迅速な結果が得られるにもかかわらず、父親はこの形式にこだわりました。

これが親子で楽しむゲームとして実施されていたのならば気を楽にできたのかもしれないですが、ゲームではないのです。
父親は真面目に目の前の物を取って来させようとしており、ふざけてこのような行動を起こしているわけではありません。そのため、子供が自分の思った通りに動かず失敗すると苛立ちを隠さず、激しい叱責に繋がりました。

物を移動させたり廃棄させたりする場合も同様です。
子供を「おい」と呼び、目の前にある物を顎でしゃくりながら「ん」と言うだけで、ほとんど言葉を発しません。時には「これ持って行け」と言葉にすることもありましたが、目の前の「どれ」を「どう」すれば良いのか具体的な指示はないため、命令された側が状況などを加味して察する必要があります。

これによって、後々になってから子供側が父親の意図を正しく汲み取れておらず、間違った処理をしてしまったと発覚し、父親を激怒させてしまうこともありました。

意図の読み間違いを未然に防ぐため、子供が先に「どうすれば良いの?」と問おうものなら、それだけで「いちいち聞くな!」「そんなこともわからんのか!」「さっさとやれ!」と叱責されてしまうため、その場は黙って直感に従った行動を選択するしかありません。

お茶汲みと食事中の給仕は、命令の対象を母親と私のみに限定すると定めていたようでした。

例えば自宅の1階に父親がおり、同じ部屋に弟が何人いたとしても、2階にいる母親もしくは私を、返事があるまで延々と呼び続けます。
台所に最も近い位置にいる人間が父親しかいなくても、大声で
「おい!」
「お茶!」
「おい!お茶!おい!」
「お茶!早くしろ!」
と怒鳴り続けるのです。

食事中は、お茶もしくはご飯のおかわりをよそう給仕が要求されます。

家族全員が揃った食卓で、父親が空の茶碗を突き出して「おい」とか「ん」とか意味のない言葉を発した際に、すぐさま母親か私のどちらかが立ち上がって茶碗を受け取り、おかわりをよそわなくてはなりません。すぐに自分の食事を中断しなかったり、ボーっとしていて反応が遅れたりすれば、強く咎められます。母親や私が炊飯器から最も遠い位置にいたとしても、父親自身や弟たちが対応することはありません。

この食事中の給仕が、最も言葉のない命令が多い場面でした。
私は父親が食事中に「ご飯のおかわりをよそって」とか「お茶を入れて」とか、文章の形で依頼する姿を、ただの一度も目にしたことがありません。

また、これは日常的に発生していたわけではないのですが、腰痛を発症した父親の介助をする際も言葉のない命令を受けていました。

慢性的な腰痛持ちだった父親が、突発的にその腰痛を悪化させてしまい、寝たきりになってしまうほどではないにしても、何気ない行動にも制限が掛かってしまって自由に動けなくなることが度々ありました。

このような時に身近な人間の手を借りることは当然の流れなのですが、他の命令の場合とは異なり、なぜかこの腰痛時の介助は家族の中でも私一人だけが対象で、母親や弟たちは対象ではないようでした(私が目撃していないだけで他の家族が介助していた可能性もあります)。

流れとしては、いつものように何の前触れもなく、唐突に別の部屋から「おい!」と私を呼びつける父親の大きな声がします。声のする部屋へ行くと、父親が「ん」と唸って私に向かって靴下を放り投げ、両足を投げ出します。
言葉による説明は何もありませんが、腰が痛くて身を屈めて靴下を履くことができないのだと意を汲み取り、すぐに履かせる作業に取り掛からなければなりません。反応が鈍い様子を見せてしまうと叱責が飛びます。

全ての命令に共通していたのは、父親が自分自身で実行する選択肢が最も早く効率的(腰痛時の介助は除いて)であっても、どんなに非合理な選択であっても、何が何でも「他者を動かそうとする」強い意思があった点でした。最重要事項が「父親の意に沿わせること」なのですから、外から見れば合理的ではない行動でも、父親にとっては理に適った行動だったのでしょう。

私は、これらの子供の頃から続いた父親の日常的な命令によって、心が深く傷ついたとか、精神的に大きな負荷が掛かったとか、そういった重大な影響は自分にはなかったと思っていますが、いつも惨めな気持ちにはなっていました。

父親の命令は、短い唸り声や顎で方向を指し示すような、言葉を用いないものばかりです。
これは、私に「自分は『人間』として扱われていない」という感覚を強く植えつけました。

声に出して言葉で説明をした方が、効率良く物事を運べる、と容易に想定できる場合であっても、言葉がないのです。
まるで、言葉を操れない動物に対して調教師が無感情に行動を操ろうとするような、歪な構図をそこに見ました。

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