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15.子供が何をしていても叱る父親だった

私が小学生になった辺りから始まったと思います。
弟たちも同様の対応をされていたため、私だけが特別に父親から目の敵にされていたわけではありません。

もちろん、子供が学校の宿題や家事手伝いなどの「やらなければならない作業」を片づけずに、ゲームをしたりテレビを見たりして遊び惚けていれば叱られて当然です。どこの家庭でも同じような対応をしていると思います。私自身、親との約束を破る行動をして叱られた場合は自分が悪いのだと認識できていました。

そのような一般的な基準で叱られる場合もあったのですが、全体的に見ると私の父親の言動は一般的なものとは様相が異なっていました。

我が家の子供の指導監督は「母親の管轄」だと父親が定めていました。
そのため、日々の生活上の規則や方針は、母親と子供との間で定められる取り決めが基軸となって形作られ、物事が進みます。母親と子供たちだけで全てが完結できていれば、私たちは一定の秩序が守られた生活を送れたのでしょう。

しかし父親は平気でその秩序を壊します。
頻繁にそうした「母親と子供との取り決め」を無視する叱り方をするのです。

例えば、子供と母親との約束事で家庭内での過ごし方(時間割)が決まっていたとします。どこの家庭でもあるような「○○時までに宿題を終えたら遊んで良い」とか「○○の手伝いをした後に遊んで良い」とかいうものです。子供は母親との約束を守れば自由に遊べるため、言いつけ通りに作業を終わらせられるよう頑張ります。作業が完了し、母親の最終確認を経て、子供は遊び始めます。
そこへたまたま父親が通り掛かり、子供の遊んでいる姿を見つけると、すぐに咎め始めます。

「お前は何をやってるんだ?」
「遊んでる暇があるなら家の手伝いをしろ!」

子供は「お母さんと○○って約束してて○○が終わったから遊んでる」と説明します。
しかし父親はその説明を聞き入れません。
親から叱られている時に子供がする説明は「説明」ではなく「言い訳」であると受け取られます。親から咎められて出てきた言葉が謝罪ではなく言い訳である子供は生意気な人間であり、父親はその反抗的な態度に怒って更に強く家事をするよう要求します。
ここで、子供側が「お母さんと約束した」「言われたことはちゃんとやった」などとしつこく食い下がると、父親の怒りを増幅させてしまい、運が悪ければ最終的には暴力の形で制裁を受けることになります。

概ねこういった流れで、我が家では子供が何をしていても父親から叱られる結果になるのです。

ゲームやテレビは無論のこと、読書(読んでいるものが漫画だろうが教科書だろうが関係はない)も、電話をしていても、絵を描いていても、考え事をしていても、何もせずボーっとしていても、父親の目についた行動は咎められます。
とにかく父親が「目障りだ」と感じれば、子供の行動の内容が何であっても叱責の対象になりました。
(「目障り」とは、父親が私たち子供へ直接口に出して伝えていた言葉であり、憶測の表現ではありません。)

叱られるか叱られないか、違いは父親の「機嫌の良し悪し」のみです。
別の日に同じような行動を子供がしていたとして、叱る時もあれば叱らない時もあります。

機嫌が良くはないけれど最悪でもない、という状態ならば、その場での叱責を免れる場合があります。
ただし、それは単に父親が「目障りな子供の行動」を視界へ入れた際に、子供との接触そのものの面倒臭さが勝っている状態だっただけなようで、ほとんど良い結果にはなりませんでした。
遊んでいる子供を見つけたその場では、舌打ちされて冷たい視線を送られるだけで済んでも、後から「お前さっき遊んでたよな?家の手伝いをしないような人間は○○を取り上げられても文句はないよな?」といった具合に、時間を置いた罰が設けられる危険性があったため気が抜けなかったのです。

逆に、とても機嫌が良い時の父親は、普段の不機嫌を露わにして過ごしている姿からは想像できないほど、言動が豹変するのでした。

具体的には、子供が遊んでいる姿を目にすると、勢い良く駆け寄ってきて「○○ちゃんどうしたの~?」「何してるの~?」と大袈裟な猫撫で声で話し掛け、顔を覗き込んだり体をさすったりして子供の様子を窺い、特に子供のしている行動については咎めることなく、そのままその場を立ち去るか、遊びを止めて家事をするよう穏やかに命じるかのどちらかになります。

この時の父親ならば、子供が命じられた手伝いにすぐ応じなくてもほとんど叱りません。
ただし、この上機嫌は時にはものの数秒間で急降下をすることもあり、決して機嫌が良いからと気を抜いてはなりませんでした。


私が小学校中学年になる頃には、自宅で何をしていても父親から咎められてしまうこの現状に対して「手詰まりだ」という感覚を持つようになりました。

学校の宿題をやっていても、教科書を読んでいても、何をしていても叱られる、どうやっても父親の叱責を回避できない、叱責の有無が運でしかない、どうにもならない現状に苛立ちを感じていました。

打つ手なしだと認識していたこの問題でしたが、私は成長するにつれて父親が家庭内の子供の役割について、何を理想としているのかを理解します。
父親は「自宅で子供が常に何らかの家事に従事している状態」を理想としていました。

子供が母親とどのような約束をしていようと、子供の家庭内の過ごし方に対する学校からの指導がどのようなものであろうと、全てがどうでも良く、子供が家の中で過ごす時間は全て家事へ従事させる時間としたい、という考えを父親は持っていたようでした。

また、父親の命令の傾向は「とにかく何でも良いからあらゆる家事をやれ」であり、具体的に何をしなければならないのかは子供自身で考えなくてはなりません。
私が父親から「早く家事をやれ!」と叱責されて「何をやれば良いの?」などと問い返そうものなら、父親はすぐさま「自分の頭で考えられないのか!」「自分で見つけろ!」と激昂してしまいます。

一口に「家事」と表現されても、その対象は無数にあるわけです。
母親との約束で行っていた料理の手伝いや風呂掃除などのわかりやすい家事が終わっていれば、その他の家事を探すことになります。例えば障子の張り替えだったり庭の整備だったり室内の不用品の処分だったり、探そうと思えばいくらでも出てきます。

当時の私はある程度は父親の命令に従っていましたが、正直なところ内心では途方に暮れてばかりでした。

父親は基本的に家事をしないため、私が慣れない種類の家事に苦心していても手助けをしてくれるわけでもなく、取り扱う内容によっては「こんなの子供の自分だけじゃ永遠に終わらない」と絶望するようなものも多々ありました。
何より終わりが見えないことが苦痛で堪りません。
終了条件は「父親の気が済むまで」であるため、その匙加減は父親の気分によって変動します。

時には、他の家族が皆思い思いに自由に過ごしていて、自分だけが必死に作業をしている状況に気づいて馬鹿馬鹿しくなってしまい、適当にサボったり手を抜いたりすることもありました。
それでも、この「何をしていても咎められる」環境が常態化していたことによって、普通に過ごせるはずの時間も始終「逃げ場がない」ような「追い詰められる」ような感覚に蝕まれてしまい、強い圧迫感を受けるようになってしまいました。


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