11.家族の道化になろうとした子供
我が家は常に騒々しい家でした。
その時々で家族の誰が欠けていようとも、父親さえ在宅していれば、日常的に屋外へ響き渡るほどの怒号や泣き叫び声に溢れ、何事もなく平穏に終えられる日は皆無だった、と言い切ってしまえるほど騒々しい家でした。
田舎の戸建てで、家屋と家屋の距離が近くなかったことが不幸中の幸いですが、家の外まで漏れていた騒音の影響が周囲へなかったはずもなく、酷い近所迷惑を振り撒いていた家には変わりありません。
稀に父親が宿泊を伴う出張などの用事で家を空ける日があり、その空気の差は歴然としていました。父親不在の我が家は、誰の怒鳴り声も金切り声も悲鳴もなく、皆とても静かで穏やかに各々の時間を過ごすことができたのです。
日常的な騒音の発生源は父親だけに限定されていたわけではありません。父親だけが一人で怒鳴り続けて騒音を生成していたのではなく、母親が怒り狂う時もあれば、子供の誰かが泣き叫び続ける時もありました。
それでも父親がいないという、ただそれだけの条件で家庭の静けさと平穏が得られました。
父親がいれば、その父親を起点に家族の争いの火種や揉め事が拡大していく傾向にありましたが、それでも24時間隙間なく常時争いで埋まっていたほどではありません。家の中に父親がいながら、何も問題が起きていない状態も存在しました。家族同士で普通に会話ができる時間です。
こういった時、私はなるべく家族の中で道化、お調子者を演じるよう腐心していました。
突拍子もない作り話をして、おかしな言動をして、よく知りもしない有名人の物真似をして、家族に笑われる、もしくは身の周りの小さな出来事に対して大袈裟に憤って見せて「くだらないな~」と家族を呆れさせる、そうして少しでも殺伐とした空気の発生を間延びさせようとしていました。
それは私自身の居心地の問題というよりも、年の離れた幼い弟の影響がありました。
イライラが蓄積した時、兄や父親から真っ先に攻撃される対象が幼い弟だったからです。体も小さく力も弱い弟は、隙ができると最適な八つ当たり先として狙い定められてしまうため、それらの攻撃の気をそらす意味がありました。
道化を演じても彼らの攻撃性が静まらないようであれば、幼い弟が攻撃されそうな粗を私が先んじて叱っている姿勢を見せる(既に指導しているから他の指導は必要ないと主張する)といった手法も取りました。弟本人には伝わっていない、もしくは結局同じだと感じていたら申し訳ないのですが、父親らが「教育だ」と主張して行う「指導」はとても暴力的で理不尽だったため、私はそのままにしておくことができませんでした。
また、子供たちと立場は違えど、母親は母親で理不尽な攻撃を受けていました。
母親の家事が父親の求める水準に達していなければ、激昂され、激しく叱責されて、父親の気が済むまで怒鳴り続けられ、底なし沼のような終わりの見えない怒りに、母親の疲弊していく姿がありました。静かに涙を流す母親の姿を何度も目にしました。
父親に対して抱く恐怖は私が成長してもなくなりはしませんでしたが、中学生頃には少しは抵抗ができるようになっており、母親が父親から理不尽に怒鳴られる姿を目撃した後に(その場では何もできない状態には変わりがない)、母親に対して
「あれはお父さんが悪いよ」
「ああいう言い方は酷いよね」
「あの時は○○って言ってたのに○○っておかしくない?」
などと父親への非難を口にし、弟たちを巻き込んで母親を擁護するようにしていました。
その際も、あまり深刻な雰囲気にならないように、少し茶化すような言い方をして笑いを誘うようにしたり、弟たちに同意を求めて皆母親の味方だと印象づけるようにしたりと気を配っていました。
母親は別に私のそういった行いに助かったと思っていなかったかもしれず、逆にありがた迷惑と受け取られていたかもしれませんが、その時の私は自分が道化になることが最善だと思っていました。
なるべく私が家族の調整弁のような役割を担えるように意識していました。
もちろん常にその役割を全うできたわけではありません。
放棄してしまった時もありました。
感謝されたくてやっていたわけではありません。
私は、ただ普通の家族が欲しかったのです。
周りの子の家族のように、絵本に登場するような物語の中の家族のように、いつも温かで家の中に笑顔が溢れているような、家族で笑い合って穏やかに過ごせる時間が欲しかっただけです。