見出し画像

詩「欣ばしき手」河村悟 自己と他者 善と悪 光と闇 


アナタにとって良きことは、他の人にとって悪しきことになるのは何故か。
ひとりひとりには決して悪は存在しない。何故なら、良きことは良きことだからだ。だが、人々が集まり、複数の中に入る時、アナタにとって良きことは、他の人にとって悪しきことになるのは何故か。
アナタに光がもたらされた時、あなたの見えない所に影が出来る。
アナタが光を受ければ、他の人は影を受け取る。アナタが良きことを受け取れば、他の人は悪しきことを受け取る。悪はここに生まれる。
だから、良きことを受けた人は、良きことを与えなければならない。
受けたのもを与えた方に返すのではない。受けたものを更に他の人に与えるのだ。それが良き行いである。光を受けたものは、光を影に与えるのだ。
受けたものは与えよ。無条件で。
それだけが、ディオゲネスの日向を克服することが出来る。
悪とは光への憧れである。光への願望である。だが悪は存在しない。
それは光への憧れが存在しなければ、光が存在しないからである。
憧れは一つの色彩である。色彩は全ての喜びである。喜びは光の感情である。
光への憧れが光そのものなのだ。それは悪ではない。つまり、悪は存在しないのだ。私達ひとりひとりが光の憧れである。私達ひとりひとりが喜びの色彩である。私達ひとりひとりが光を受け取るものだ。
そして、私達ひとりひとりが光を与えるものでなければならない。
したがって、悪とは光が注がれるのを待っている器である。それは聖杯と呼ばれる。私達ひとりひとりが孤独な肉を着た聖杯である。私達ひとりひとりが悪なのだ。だが、悪は存在しない。なぜなら、それが善の種子だからだ。
汝、良き行いをなせ。悪とは汝の手である。光を受け取る手、それが悪である。
汝、悪を慈しめ。清らかにたもつのだ。
汝の手、人の手。
受け取ることと与えることをなすために造られた、欣ばしき手よ。

河村悟 欣ばしき手



💫💫🫲💫💫💫🤲💫💫💫💫🤝💫💫💫💫🫱

(ここから先はぼくの詩の解釈になる。
詩はそれぞれが感じ考えたままの方が良い氣もするので、ここから先は興味のある方のみお進み貰えたら💫詩の余韻を味わうことのほうが大事かも💫💫💫)



ヌーソロジーの20%は故河村悟さんの影響を受けていると、提唱者半田広宣氏は言いう。
この詩が意味するところ、光と闇、善と悪、簡単には割り切れない事を表しているどころか、善が悪を生み出してるとまでいっている。

この詩が表現していることは自分達の普段の常識とは全く違う。全く違うエネルギーの流れだ。
何か物を貰ったら与えてくれた相手に返さず別のところへ与える。
自分が良事を受け取れば周りに悪が生まれるというのだ。


現代社会では何を言ってるんだとなるこの詩の内容だが古代人の精神構造、または現代に残された数少ない民族の中ではこの精神構造が未だ生きている。

それはスピリットの動き。
霊の世界。
メビウスの輪だ。


ヌーソロジーでは世界はメビウスの構造になっていると何度か記事で書いてきたが、それは霊の世界。スピリット、マナの働きなのだ。
表と裏。光があるから闇があるのではなく、
光と闇は表裏一体となって存在している。
善と悪も然り。
時空という物理次元のものの見方では到底理解する事が出来ない世界。

一神教の世界ではこのメビウスの精神構造が言葉によって閉じられ霊の世界、スピリットは亡きものにされ多神教の神々は悪神とされてしまった。



中沢新一「カイエ・ソバージュ 神の発明」より


ドーナツ型トーラス。
これが近代以降の人類の精神構造だ。
一神教、唯物論、スピリチュアルのワンネス、
仏教の空。
この輪の中から出る事が出来なくなっている。
単純な「1」や「無」に帰結する思想はこのドーナツ型トーラスが原因となっているのだ。
「無」はドーナツの真ん中の虚空、ここが「無」とされている。

(その認識が良い悪い、合っている間違っているということではなく、人類はこのカタチの中で自我や言葉、時間と向き合わなくてはならなかったということ。)


多神教世界と来訪神


引用は同本


こちらの図の上、本土というのは日本のことだ。
ぼくら日本人は基本的に天照大御神を頂点とした多神教世界、そしてそこにたまにやってくる来訪神の精神構造を持っている(隠された神々も近年顕になってきてはいるが)。基本トーラス型だがたまにメビウスの輪と繋がり、そこから来訪神、マレビト、霊、スピリットはやってくる。
下の南島の精神構造はグレートスピリットとスピリットの世界。高神と精霊達の世界は別れてしまっている。グレートスピリットは一神教の元となった。



かつてイスラエルもヤハウエ(ヤーヴェ)が完全な一神となる前はメビウス的な神々(バアルと記されている方)とともにあった。
ヤハウエが完全な一神となった時、ドーナツ型トーラスは世界を覆い始めた。
ドーナツの真ん中の「無」はAI、メタバースの世界となるだろう。


「霊」の世界はぼくらの言葉で表そうとするととんでもなく難しくなる。日本の哲学者にはそこまで表すことに成功した先達(鈴木大拙、西田幾多郎など)がいるが早々理解できるものではない。
3次元の感覚、思考ではとてもではないが理解しにくいものだ。
しかし、自分の良いと思ってる行為は反対側に回れば悪となるかもしれない。
自分は自分を善と思っていても自分を悪と思っている人もいるかもしれないくらいには意識してもよいのかもしれない。

重心負荷反映対化・・・
対になる物はそうやって生まれてくるのだろう。
対なる物、対化は等化されるか融解してしまうか。
重心負荷反映対化等化中和対化等化中和・・・
メビウスは垂直方向にまた新たなメビウスを創り出していく。

ぼくが外側に出よう、反転しようと3つ前の記事から書いたのは、ドーナツ型トーラスの精神構造を何とかしないといけないからだ。
ドーナツの筒の中から出て、垂直方向にあるメビウスを発見しないとならない。本当の他者はそこにいる。
霊を生きながらにして感じる世界もそこにあるのだ。

故河村悟さんの詩はマナ、スピリット、霊の動きだ。ひっくり返ってまた戻り、捻れて、伸びて、また縮む。
黒はある人にとって白だし、白はまた別の人にとって黒だ。黒はぼくらの視力では見えないところで白で白はぼくらの視力で見えないところで黒だ。

一つは2つを有し、2つは一つを生み出し、
一つからまた2つに成る。

3次元の価値観、認識、社会的な付き合いのままでこれを実践することは不可能。
ぼくらの空間認識、世界認識を変えていく事でしかたどり着けない世界。


実際的に考えてみると・・・


この動きを実践することも考えてみたが与えてくれる側へ何かを返すというところから離れられない・・・、与えてくれた側へ返しつつ、与えられたものを他の人に与えるということなら出来ると思うがなかなか大変である。この構造はドーナツ型トーラス+メビウスになるのだろうか🤔🤔🤔💫∞💫日本人は取り敢えずのところは元々の多神教的世界(隠された側も含めて)+来訪神の精神構造を取り戻せばよいのかな🤔🗾🤔


実際的に実践する事が出来ている人々

古代人は自我が無く(または弱く)霊であるメビウス構造で生きていたのでこれが出来ていた。
現代でもインドネシアのプナン族、南米のピダハン族など与えられたものを全て与える人が最も尊敬される人マージナルマンなどと称される。
(ピダハン族は川瀬統心さんのブログ、プナン族はぼくの記事があったのでご参考に🌟)



・左右の概念がない
・「数」がない
・「色」を区別する言葉がない
・男女の性差を表す言葉がない
・過去や未来を表す言葉がない
言語に未来形と過去形がないことから、ピダハンの思考には未来と過去がありません。(※正確には、過去完了形・未来完了形がない)

上記ブログより



(こちらはぼくのプナン族記事🌟)


3次元的認識と4次元的認識の等化の先にメビウス5次元ワールドがある。(等化とは差異を認識して新たな次元を垂直方向に押し上げて生み出すこと。)
かつては感性のみでそこへと繋がっていた古代人。宇宙(存在論的他者)は今度は感性と自我(思形)を持ちながらもそこへと進む事を望んでいる。新たな段階に進む時代が始まっているのだ。


(お口直しにもう一度河村悟さんの詩をお読みいただけたら💫∞💫)


以上です💫∞💫



ナマステ🐉✨


関連記事




いいなと思ったら応援しよう!