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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身…
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記事一覧

父が子に命の道を案内する

父が子に命の道を案内する

箴言2:1-22 
 
前置きを別とすれば、箴言は「子よ、父の諭しを聞け」(1:8)に始まります。これが7章まで続き、最後は女の誘惑への戒めで結ばれています。父から息子への諭しです。専ら男社会の文言です。その中に「異国の女」への注意が時折現れます。ただの女ではなく、異国の女だからこそ、よくよく気をつけなければならない、というかのようです。
 
この2章でも「よその女」と呼ばれる女が警戒されます。「

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弱さあるがゆえに

弱さあるがゆえに

コリント二13:4-9 
 
パウロは堂々と告げます。キリストは弱かった。栄光のキリストを思い描くほかに、キリストの「弱さ」というものも表に掲げます。それは「神の力」がそこに働き、その力のゆえに命が与えられたからです。パウロもまた弱い。しかしそれは、キリストと共にある弱さです。パウロも、そしてコリント教会の人々も、強く生きることができます。
 
神の力が助け、キリストが共にいるからです。命がここに

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狭い門について省みる

狭い門について省みる

マタイ7:13-14 
 
「目から鱗が落ちる」は、まだよい方です。でも「狭き門」という、人口に膾炙した言葉は、本来と正反対の意味で世間で使われています。浄土真宗が「他力本願」という言葉の正反対の利用を止めるよう、2002年にO社に抗議文を提出したことで、いまは公的には、その誤った使い方は禁じられるよう動いています。これはよいことでしょう。
 
同様のことがキリスト教にもできるはずだと思うのですが

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そこにモーセがいるからこそ

そこにモーセがいるからこそ

ヨシュア1:1-9 
 
「強く、雄々しくあれ」と、三度繰り返されます。そこに、説教の根幹が普通置かれます。もちろん、間違ってはいません。でも、そういう結論だ、と思いこんで聞いていると、他の言葉を捨象してしまうことになります。「モーセは死んだ」という冷たい指摘があります。律法が与えられるという時代が、すでに終わったことを示しています。
 
モーセその人は、もういません。遺ったのは、モーセを通して授

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よくぞ遺してくれたもの

よくぞ遺してくれたもの

コロサイ2:16-23 
 
これが聖書だ、という明確で共有できるカノンがない時代、イエスの教えを受け継ぐ人々は、どれが正しいのか、どれが教会の教えとして相応しいのか、といった判断は、難しい問題だったことでしょう。権威のバックボーンがないからです。ここでは、キリストにある生活はどうあるべきか、を述べていますが、これぞ神の命令、とは言いにくいものです。
 
これが定まった背景には、教会内で実際に困っ

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欲望の舌に耳を傾けるな

欲望の舌に耳を傾けるな

箴言17:1-5 
 
一つひとつの箴言が、それぞれの人の心に働けばよいのです。その集まりをまとめて解釈するのは、本意ではありません。ただ4節の「欲望の舌」という言葉に足場を置いて、この辺りの声を聞いてみようかと思います。これは欲望を満たすのだという声を指すと共に、欲望を正当化する言葉をも意味している、と理解できます。
 
「いけにえの肉」ですら、そこに争いがあるならば、むしろこの舌に従っているこ

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決心はいつだったか

決心はいつだったか

ルカ19:1-10 
 
いやに具体的です。このザアカイという人物の話、どこからどう伝わってきたのでしょうか。資料さえあれば、マルコもマタイも無視することはなかったでしょう。ルカには、そのようなエピソードが幾つもあります。これについてもいつか検討してみたいものです。ところでこのザアカイという男については、非常に描写が細かいのが特徴的です。
 
肩書きについてもそうですが、一つひとつの言動が、実に表

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富めることへの箴言

富めることへの箴言

箴言22:1-16 
 
諺集のような「箴言」をひとまとめにしてそこから語る、というのは難しいものです。いくらかまとまった連絡を呈しているところもありますが、今日の箇所はそうは見えません。一つひとつの言葉をそれぞれに受けて戒めとし、格言とするべきなのでしょう。無理に、一つの貫く語を探すのは強引かもしれません。が、ここでは「富」を設定してみます。
 
「名声は多くの富よりも望まし」い、というところか

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今日も預言者が呼びかけられている

今日も預言者が呼びかけられている

エレミヤ1:1-10 
 
エレミヤという預言者が、克明に記録されているわけではありませんが、その生き方はその言葉からよく窺えます。歴史的事件を頼りに捉えると、60年間ほどの預言者活動があるように見られますが、その生涯の数々の危機を考慮すると、よくぞ長きにわたって生きて活動できたものと驚きます。神の守りがあったのでしょう。
 
複数の実在人物の経験を、エレミヤという一人の名前で記録して遺したのだろ

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もはや子どもではなくなって

もはや子どもではなくなって

エフェソ4:14-15 
 
幼子のようにならなければ神の国に入れないということと、いつまでも子どもじみた考え方や行いのままであってはならないということとは、一寸聞くと相容れないように感じる。「子ども」という概念が、私たち現代人が考えるものとはきっと違うわけで、それはつい百年前でも異なるほどのものですから、仕方がありません。
 
「私たちはもはや子どもではなくな」るべきなのです。大人になるというこ

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コリント教会に勝っているのか

コリント教会に勝っているのか

コリント一3:1-9 
 
「あなたがたはただの人」になってしまったのか。パウロは嘆きます。ここまでも、コリント教会の分裂事情を書いてきました。いま、しばし回復の希望を語りつつも、この後また、教会内の不祥事にも言及してゆくから、パウロの頭の中にあるのは、呆れたという思いばかりであったのかもしれません。
 
キリストを信じたというのは大きなことなのです。それなのに、「ただの人」でしかないとは。それは

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アブラハム以来のイスラエルの歴史に加わる

アブラハム以来のイスラエルの歴史に加わる

詩編105:1-11 
 
イスラエルの歴史を、この詩はうたいます。出エジプトの出来事が大きな意味をもつことは、多くの詩が知らせています。でも案外、アブラハムにまで遡ることは多くありません。まるで出エジプトこそが、イスラエルの初めの歴史であるかのようです。「主の契約」はとこしえに心に留めている、と言います。
 
それは「アブラハムと結んだ契約」のことであり、「イサクに対する誓い」をも含みます。「私

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ヤコブの最初の変化

ヤコブの最初の変化

創世記28:10-17 
 
母リベカは、ヤコブを愛していました。ヤコブは後にイスラエルという名をもらいますから、イスラエルを選んだのは、ある意味でこのリベカだったことになります。兄エサウを騙して、ヤコブに父イサクの祝福をすべて与えることに成功しました。が、ヤコブは恐れなければならなくなります。祝福を受けたのに、逃亡生活が始まるのです。
 
ハランにいる、リベカの兄ラバンの許へ逃げよ。これもリベカ

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アブラハムとのつながりができる始まり

アブラハムとのつながりができる始まり

創世記17:1-8 
 
父の家を離れよ、と主がアブラムに告げたときも、子が増えると教えたときも、主は札序アブラムの前に現れて声をかけました。但し、子はしばらくの間与えられはしませんでした。アブラムが99歳のときの出来事も、突然でした。ついに子孫が具体的に与えられようとしています。そのためには、まず改名、名を変えることが必要でした。
 
「あなたの名はもはやアブラムとは呼ばれず、アブラハムがあなた

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