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狭い門について省みる
マタイ7:13-14
「目から鱗が落ちる」は、まだよい方です。でも「狭き門」という、人口に膾炙した言葉は、本来と正反対の意味で世間で使われています。浄土真宗が「他力本願」という言葉の正反対の利用を止めるよう、2002年にO社に抗議文を提出したことで、いまは公的には、その誤った使い方は禁じられるよう動いています。これはよいことでしょう。
同様のことがキリスト教にもできるはずだと思うのですが
よくぞ遺してくれたもの
コロサイ2:16-23
これが聖書だ、という明確で共有できるカノンがない時代、イエスの教えを受け継ぐ人々は、どれが正しいのか、どれが教会の教えとして相応しいのか、といった判断は、難しい問題だったことでしょう。権威のバックボーンがないからです。ここでは、キリストにある生活はどうあるべきか、を述べていますが、これぞ神の命令、とは言いにくいものです。
これが定まった背景には、教会内で実際に困っ
もはや子どもではなくなって
エフェソ4:14-15
幼子のようにならなければ神の国に入れないということと、いつまでも子どもじみた考え方や行いのままであってはならないということとは、一寸聞くと相容れないように感じる。「子ども」という概念が、私たち現代人が考えるものとはきっと違うわけで、それはつい百年前でも異なるほどのものですから、仕方がありません。
「私たちはもはや子どもではなくな」るべきなのです。大人になるというこ
コリント教会に勝っているのか
コリント一3:1-9
「あなたがたはただの人」になってしまったのか。パウロは嘆きます。ここまでも、コリント教会の分裂事情を書いてきました。いま、しばし回復の希望を語りつつも、この後また、教会内の不祥事にも言及してゆくから、パウロの頭の中にあるのは、呆れたという思いばかりであったのかもしれません。
キリストを信じたというのは大きなことなのです。それなのに、「ただの人」でしかないとは。それは