見出し画像

そこにモーセがいるからこそ

ヨシュア1:1-9 
 
「強く、雄々しくあれ」と、三度繰り返されます。そこに、説教の根幹が普通置かれます。もちろん、間違ってはいません。でも、そういう結論だ、と思いこんで聞いていると、他の言葉を捨象してしまうことになります。「モーセは死んだ」という冷たい指摘があります。律法が与えられるという時代が、すでに終わったことを示しています。
 
モーセその人は、もういません。遺ったのは、モーセを通して授けられた律法です。しかしヨシュアが指導する時代となった中で、モーセの律法を守ってゆくという姿勢は、あまり感じられません。約束の地カナンに入植する過程と、そのための戦いに明け暮れる軍の描写ばかりです。ただ、相続地の有様は、細かく記されます。
 
それに応じて逃れの町の規定が、律法のように記されているのは目を惹きます。このようにして、イスラエルの土地支配が安定したことを見届けると、ヨシュアは静かに舞台から去るのでした。ヨシュア記の冒頭は、この領土を与えるということのスケッチをしているといえるでしょう。その実現へ向けて、ヨシュアを主は励まします。
 
「私はあなたと共にいる」と主はヨシュアに声をかけ、「強く、雄々しくあれ」と力を与えます。ヨシュアの「命の続く限り」、イスラエルは守られ、レバノンからユーフラテス川まで領土を拡げるに至る、というのです。「私の僕モーセは死んだ」のですが、「モーセに告げたとおり」土地を与えるし、「モーセと共にいたように」ヨシュアと共にいます。
 
だから「モーセがあなたに命じた律法をすべて守り行」うのだ、と命じます。モーセの影は、こうしてヨシュアにつきまといます。「この律法の書」は、ヨシュアの口から離れることがありません。「昼も夜も」その口から唱えられるべきです。そうすれば、そこに「成功」が伴うことでしょう。「行く先々で栄え」ることでしょう。
 
「うろたえてはならない。おののいてはならない」という言葉が成り立つのは、主が共にいるからである。そのように受け止めることは、もちろん完全に正しいことであり、私たちもそう信仰して差し支えありません。ただ、ヨシュアにとってはそこに、同時にモーセの存在が大きく影響していた、ということに気づくことも必要だと感じます。

いいなと思ったら応援しよう!