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決心はいつだったか
ルカ19:1-10
いやに具体的です。このザアカイという人物の話、どこからどう伝わってきたのでしょうか。資料さえあれば、マルコもマタイも無視することはなかったでしょう。ルカには、そのようなエピソードが幾つもあります。これについてもいつか検討してみたいものです。ところでこのザアカイという男については、非常に描写が細かいのが特徴的です。
肩書きについてもそうですが、一つひとつの言動が、実に表現豊かに描かれ、伝わってきます。「徴税人の頭」「金持ち」「背が低かった」という特性のそれぞれが、この後の出来事の伏線となっています。ザアカイは「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」のでしたが、どうしてそれほどにまでイエスを見たかったのか、明示されていません。
癒やしてください、というのでもないし、食べ物を求めているわけでもありません。イエスは木の上のザアカイを見て、「ザアカイ」と名を呼びます。今夜の宿を、もうザアカイの家で、と決めていたといいます。子ろばを所望した件のように、予知的な言動なのですが、何故その名を知っていたのか、についてはやはりよく分かりません。
周りの人々は、ザアカイのことを当然のように知っていました。「罪深い男」だと呼んでいます。ルカ伝にはこのような呼び方が幾つもあります。「あなたのあの息子」(15:30)と弟のことを呼んだ兄の言葉を思い起こさせます。「その人に憐れみをかけた人です」(10:30)とサマリア人のことを呼んだ、律法の専門家もそうでした。
「急いで降りて来なさい」とのイエスの言葉も意義深いものです。ザアカイは背が低いのに、木に登り、高いところにいました。そのため、必要なのは、低くなることでした。そのような解釈を聞くことがあります。このザアカイは、財産の半分を貧しい人々に施し、過剰に徴収した額については、4倍にもして返却することを、イエスに誓います。
この誓いを、ザアカイはいつ心に決めていたのでしょうか。イエスに名を呼ばれた後でしょうか。それとも、そう決心してたからこそ、イエスを見たいと思い走ったのでしょうか。私は前者ではないか、という気がします。イエスは「今日」、あるいは正にこのときの今、「救いがこの家を訪れた」と言いました。もちろん、人がこのとき救われたのです。