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よくぞ遺してくれたもの
コロサイ2:16-23
これが聖書だ、という明確で共有できるカノンがない時代、イエスの教えを受け継ぐ人々は、どれが正しいのか、どれが教会の教えとして相応しいのか、といった判断は、難しい問題だったことでしょう。権威のバックボーンがないからです。ここでは、キリストにある生活はどうあるべきか、を述べていますが、これぞ神の命令、とは言いにくいものです。
これが定まった背景には、教会内で実際に困った問題が起こっていたことがあったと想像できます。異なる教えが現れて、尤もらしい姿を呈していたために、その方へ靡いてゆく者がたくさんいたのだと思われます。それを止めようにも、カノンがありません。この手紙自体が、カノンであれかしというものとして書かれたのだと考えられます。
「食べ物や飲み物のこと」や「祭りや新月や安息日のこと」で、キリストやその信仰に直接関係がない事柄が、教会内で悪しく作用し、分裂をさせるような勢いで渦を起こしていたのです。彼らは「自分を卑下し」、「天使を礼拝し」ています。「幻で見たことを頼りとし」ていたのであり、「いたずらに誇ってい」たのでした。
その様子は、とてもキリストにつながっている信仰姿勢に見えるものではないといいます。こうした輩は、現代にもあるような気がしないでしょうか。如何にも正統的な好人物であろうと、このような内実を含んでいることがあると思うのです。でもそれは、「この世」だけに生きているのと変わりがないのだ、とここでは指摘されています。
「手を付けるな、味わうな、触れるな」といった束縛を、殊更にもたらす者たちのことです。それらは、「人間の戒めや教えに基づくもの」に過ぎません。「独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもの」であって、人間的考えでは如何にも素晴らしいことのように見えますが、神からくるものではないのです。
こうして並べてくると、だんだんその様相が見えてくるような気がします。己れの「肉を満足させるだけ」のものなのであり、所詮自己満足に過ぎません。たとえ「知恵あることのように見」えても、「実は何の価値もな」いものなのです。今私たちは、こうした者に追随していないか、吟味しましょう。よくぞ当時こうした知恵を、遺してくれたものです。