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富めることへの箴言
箴言22:1-16
諺集のような「箴言」をひとまとめにしてそこから語る、というのは難しいものです。いくらかまとまった連絡を呈しているところもありますが、今日の箇所はそうは見えません。一つひとつの言葉をそれぞれに受けて戒めとし、格言とするべきなのでしょう。無理に、一つの貫く語を探すのは強引かもしれません。が、ここでは「富」を設定してみます。
「名声は多くの富よりも望まし」い、というところから始まります。「富める者と貧しい人」のどちらも主が造りました。主を畏れることと謙遜とがあれば、「富と誉れと命が付いて来る」というのは聞き逃せません。しかし、それを期待して主を畏れ謙遜を演じたとすれば、聖書の考え方とは異なってしまうことになるでしょう。
結果ではあっても、目的とし構えるべきではないものがあるのです。「富める者は貧しい者を支配」するものだ、と言っているのは、一つの事実を示しているだけで、そうした社会の歪みを告げたいのではなくて、例えばキリスト者の富が金銭ではなくて神の前に豊かにされた霊の出来事について述べているのだ、と受け止めるとよいでしょう。
そうすれば、神の国のあり方を思い浮かべるのに役立つかもしれません。地上の国と神の国とでは、類比の構造があるとしても、実質内容がまるで違うということがあるものです。この後、嘲りや裏切り、怠けや欲望に無知といったものを遠ざける知恵が並べられ、その中に善意や清い心がわずかに花を咲かせています。
それにしても、「路地には獅子がいる。広場で私は殺される」という怠け者の口上には笑ってしまいます。自分を見出すような気がします。怠ける言い訳はいくらでもあるものです。それは勇気とは正反対の世界です。それから結びは「富める者に貢ぐ者は欠乏にあえぐ」といいますが、「蓄財のために弱い人を虐げる者」もまた反面教師なのでしょう。