noteクリエイターの最大の価値は独創的かつ創造的な記事を書けることにある
noteを継続していて一番悲しいことは、過去に出会って相互フォローしたクリエイターの皆さんが徐々に減っていくことです。そしてその皆さんたちは、とても独創的で創造的な記事を書かれている場合がとても多いです。
今回の記事が、そのような脱落する皆さんを減らしたり復帰したりすることのお手伝いになれば幸いです。
昨日書いた記事はこちらです。
本題に入る前に用語の説明です。
独創と創造の違いについて
今回のような記事タイトルにしますと、碌に調べもせずに「独創」と「創造」の意味は同じではないかと突っ込んでくる輩がいます。そのような連中はおつむがあれなので無視すればいいだけなのですが、念のためこれらの2語の意味の違いを載せておきます。
敢えてGoogleAIで調べる必要もないぐらい簡単な意味なのですが、下にその結果を載せておきます。その中から一部だけを抜粋しておきます。
独創力
「他人を真似ることなく、独自の考えでものごとを作り出す性質・能力」
創造力
「新しいものをつくりだす能力」「新しい価値を生み出す力」
noteクリエイターの最大の価値は独創的かつ創造的な記事を書けることにある
私は今夏で1,000日連続記事投稿を達成します。一時期1日2投稿もしていましたので、すでに1,000個以上の記事を投稿しています。
その約3年間の出会いの中には、素晴らしいnoteクリエイターが大勢いました。その人たちは特に、30歳以上の中高年に多かったと思います。
それらの記事が素敵で素晴らしかった一番の理由は、やはり、独創的な発想と創造的な内容が優れていたからです。
日本国民の少なくとも5%は、独創的かつ創造的な記事を書ける素質を持っているのではないかと予想しています。そしてその5%の多くが、noteというプラットフォームに集中しているのではないでしょうか。
自分のnote継続に迷った時には個性的な記事を書けているかどうかを確認すればいい
私たち人間は人それぞれ異なります。そして、個性も素質も才能も全く異なります。
もしnote継続に迷った場合は、個性や素質、才能の中で、「個性」にだけ注目すればいいと思います。
つまり、記事の中で自分の個性を十分に発揮できているかどうかだけを確認すればいいのです。
その際に忘れてはならないことは、フォロワー数やアクセス数、スキの数、コメント数などに拘ってはいけないということです。
なぜなら、これらの数字は、必ずしもその人の実力を証明しているわけではないからです。
以上の数字は、どちらかと言いますと、その人の付き合いの良さが如実に表れていると言っても過言ではないでしょう。
ですから、記事投稿だけに集中している人は、あまりそこに重きを置いていませんので、必然的に数字が落ちます。
我が道を進んでいる人に、そのような傾向が表れるようです。私はそれはそれでいいのではないかと考えていて、数字が低い人をそれだけで軽く評価することは絶対にないです。
以上のことをまとめますと、以下のような小見出しになります。
独創的で創造的な記事を書けている人はそれだけで個性を発揮しており存在価値がある
私はこれだけでもnoteを継続する価値と意味があると考えています。そしてたまには中休みがあってもいいのではないでしょうか。
人は精神的にも肉体的にも疲労困憊になる時があります。そのような時に無理に続けることは、その人にとってマイナスになります。
ですから、もしも仕事や私生活の問題で疲れが溜まっている時は、一時的にnoteを休むこともありだと思います。
私はいずれはそのような時が来るかもしれません。
私たちnoteクリエイターは自信を持って行動を続けても良い
noteクリエイターの中には、他人からの誹謗中傷や悪口、陰口で自分の活動をやめてしまう人たちがいます。特に、女性と高齢者に多いようです。
しかし、それは非常にもったいないです。
できれば、それらの負(-・マイナス)のエネルギーを自分の正(+・プラス)のエネルギーに転換できるようにすればそのような困難を乗り越えられるではないでしょうか。
また、自分の記事でそのようなことを書いた方がいいです。つまり、「ある人のアンチコメントのおかげで力が湧いてきました。ありがとうございます」と。
アンチファンは、基本的にその人が苦しんだり悲しんだりして、最終的にはnoteクリエイターが活動をやめることを望んでいます。
しかし、相手を貶めたり落としたりするつもりで書いた自分のコメントにより、相手が以前より元気になってしまえば、そのような誹謗中傷コメントを二度と書かなくなります。
私はそのおかげもあって、頭の悪いキ〇ガイ底辺ファンを排除してきました。というか、勝手に去って行きました(笑)。
有名インフルエンサーの中には一々反論コメントを書いているように思われる人もいます。しかし彼ら彼女らの行動は、全アンチコメントの一部に対する反論です。そして、その反論コメントで最大限の効果を出せるような内容にしているはずです。
彼ら彼女らが一日に受け取るアンチコメントは、私たちよりも数十倍や数百倍以上多いはずです。ですから、たまには反論コメントも書いた方がいいでしょう。
ただし、私たちはあそこまでの有名人ではありません。私も変なコメントは年に4回程度で、100%無視をしています。数が非常に少ないので、それらによるストレスはほとんどなくて、毎日楽しく記事投稿をできています。
どのようなアンチファンが出て来ても、noteクリエイターは素晴らしい人ばかりです。
何があっても自分の行動に自信を持って活動を続けてもいいと思います。
継続して活動できるnoteクリエイターたちは天才集団かもしれない(笑)
自分で自分のことを天才と呼ぶことは烏滸(おこ)がましいことです。
しかし、天才の定義は人それぞれです。
過去記事でも数度書いてきたように、私の天才に関する考え方は以下の通りです。
誰でも50人の1人や100人に1人の天才にはなれる
例えば、私は小学生の時にクラスや同学年で将棋を大流行させました。その当時の友だちで大人になってからも将棋を続けている人は、私を含めて数名ぐらいだと思います。
そして、今の私は当時の同級生の中では、一番将棋が強いはずです。つまり、少なくとも100人から200人規模では最高レベルに達することができたのです。。
これが将棋を始めた10,000人に1人や100,000人に1人のレベルかと言うと私にはわかりません。しかし、50人に1人や100人に1人のレベルにはなれたことは間違いないです。というのも、若い頃の私の将棋は県トップ4ぐらいの実力だったからです。
noteの世界は100人に1人から1,000,000人に1人の天才の集まりかもしれない
私の結論は、上の小見出しのようになります。
天才のレベルには違いがあります。この際どれが一番優れているかどうかは問題ではありません。
とにかくその分野ではその他大勢から抜きん出ていることが大切なのです。
そして、どのレベルであれ、継続して記事を投稿できていることが一番高く評価されるのではないでしょうか。
最後に 高く売れるから価値があるとは限らない
上のクロード・モネの「積みわら」という絵画は、ある時期のオークションで122億円で落札されたそうです。
私なら1円でもいらないです(笑笑笑)。
私からしますと、上の絵画への評価が、私の甥が幼少の頃に描いた落書きよりも高くなることは絶対にないです。それぐらい人の評価など落差があるものなのです。
確かにモネの絵画は、古くて希少価値があるのかもしれません。しかし、その内誰も見向きもしなくなって、将来は誰もほしがらくなる可能性も0ではありません。
金持ち連中は、資産形成と投資価値、見栄と世間体、そして格好の良さなどを満たしたいがために芸術を重んじるのかもしれません。
しかし、芸術作品ものに価値があるかどうかはあまりにも怪しいものです。本当はその作品の素晴らしさなど微塵もわかっていないこともありえるのです。
私からしますと、上の絵画に対しては特別な印象を持ちません。どこが素晴らしいのか全くわからないのです。ましてや、誰かを感動させたり心を動かしたりするほどの価値が本当にあるのでしょうか。
上のモネの絵画よりは、noteクリエイターの記事の方が、感じるものが多いです。
世の中の価値観などこんなものです。
<今日の3行日記>
今日はさすがに暑いです。半袖半ズボンでも過ごせるぐらいです。今年は雨が多い4月なので野菜の生育が気になるところです。
イラスト素材:励ましのイラスト(fightとパンダ
「パンダ かわいい」で検索したところ、下のイラストが出て来ました。いついかなる時も誰かを励ませるような存在でありたいものですね。
今日の記事はここまです。
文字数は約4,000字となりました。
最後までご覧いただきありがとうございます。