東京Slowly²

2023年7月、東京を「ゆっくり(slowly)」「じっくり(slowy)」あじわい、愉しむための雑誌 「東京Slowly²」(トーキョー・スローリー・スローリー)を創刊しました。

東京Slowly²

2023年7月、東京を「ゆっくり(slowly)」「じっくり(slowy)」あじわい、愉しむための雑誌 「東京Slowly²」(トーキョー・スローリー・スローリー)を創刊しました。

マガジン

  • EDITOR'S NOTE

    雑誌「東京Slowly²」の編集こぼれ話的なことをまとめています。

  • Tokyo Slowly Story

    東京を「じっくり、ゆっくり」あじわい直す「東京Slowly²」からはじまる物語です。

最近の記事

神田淡路町 旧連雀町佐柄木町界隈

スローリー余話 街の”なりたち”#44 神田淡路町二丁目と神田須田町一丁目の境にある道路は徳川将軍が上野寛永寺に参拝する際に通った「御成道」。当時この界隈は『連雀町』と『佐柄木町』だったと千代田区の町名由来板には記されています。また1657(明暦3)年の大火「振袖火事」後には「火除け地」として幕府に没収され武蔵野に代替地が与えられ、現在、三鷹市の「上連雀」や「下連雀」という町名はこの故事に由来するとも書かれています。そんな嘗ての「御成道」の道筋には「せいろう、いちーまい」の

    • 湯島天神下界隈

      スローリー余話 街の”なりたち”#43 ”学問の神様”として知られる菅原道真公を祀った”湯島の天神さま”こと『湯島天満宮』は458年に雄略天皇の頃に創建されその後、南北朝の時代1355(正平11)年に菅原道真公が合祀されたと言われています。江戸期以降は江戸・東京の天神信仰の中心となり、今日も初春の梅の季節には受験生など”学問成就”願う人々で賑わっています。 ”天神下”あたりは昭和の中頃1960年前後まで東京でも指折りの花街としても有名でした。そんな”天神下”には鰻に真摯に

      • 上野広小路 旧黒門町界隈

        スローリー余話 街の”なりたち”#42 江戸幕府三代将軍・徳川家光の時代1625(寛永2)年に江戸城の鬼門にあたる上野の大地に建立された『東叡山 寛永寺』。その総門が黒く塗られていたので「黒門」と呼ばれ門前である左右の町屋を『上野黒門町』と称したといいます。1869(明治2)年には御成道(現在の中央通り)を境目に東西二分され「上野西黒門町」「上野東黒門町」となり、戦後1964(昭和39)年の住居表示制度により「西黒門町」は「上野一丁目」に「東黒門町」は「上野三丁目」に編入さ

        • 銀座五丁目 旧尾張町界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#41 海外からの観光客でいつも賑わっている銀座通りの五丁目から六丁目の界隈は1930(昭和5)年の町名変更まで『尾張町』と呼ばれていました。旧尾張藩の下屋敷があったことに由来します。このあたりは明治の初めの大火後に 煉瓦造りの建物が並び西洋文化をとりいれた文明開化の商業の街として発展しました。 現在の「GINZA SIX」は、関東大震災後間もない1924(大正13)年に当時『尾張町』と呼ばれていた場所に銀座初の百貨店「松坂屋銀座店」として

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        • EDITOR'S NOTE
          18本
        • Tokyo Slowly Story
          14本

        記事

          銀座六丁目界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#40 現在の『銀座六丁目』の外堀通りに近いエリアは関東大震災後の区画整理による町名変更までは江戸時代から「南鍋町」という町名でした。江戸末期の古地図によると外堀通り沿いには「紺屋町」(銀座3~4丁目あたり)や「弓町」(同2丁目あたり)「新肴町」(同3丁目あたり)などが記されていますが、これらは江戸開府にともない多くの商人や職人が江戸城の外堀に近いところから住みつき”街”を形成してきた証と言えましょう。そして令和の今も銀座の自社工場で毎日「あ

          銀座六丁目界隈

          銀座八丁目 新橋近く

          スローリー余話 街の”なりたち”#39 銀座八丁目中央通り。かつて汐留川に架かっていた「新橋」の橋柱は川が埋立てられた後も残されていますが、この「新橋」の北側は1947(昭和22)年までは「京橋区」(中央区)南側は「芝区」(港区)でした。江戸末期の古地図をみると現在の銀座八丁目の新橋寄りは「芝口金六町」や「芝口紺屋町」という町名だったようです。 そして、このあたりが「南金六町」という町名だった1911(明治44)年に創業した喫茶店「カフェ―パウリスタ」(創業場所は「京橋区

          銀座八丁目 新橋近く

          日本橋小伝馬町 江戸通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#38 千代田区大手町から台東区花川戸までの通称「江戸通り」は五街道のひとつ奥州街道にあたります。江戸の頃から主に公用の文書や荷物を運ぶ重要な役であった「伝馬」や牛馬を扱う商う「馬喰」などが地名に残る「大伝馬町」「小伝馬町」そして「馬喰横山」などの町名が現在も残る「江戸通り」の界隈は古くから商人の街として問屋街として栄えてきました。今も繊維関係の問屋が軒を連ねるこの街には明治のはじめに骨董商から牛鍋やに転じた老舗があります。 (以下2024

          日本橋小伝馬町 江戸通り界隈

          美味しいものと”あきない噺”#2

          スローリー余話 いつ食べても”飽きない(あきない)美味しいもの”には長く続く”商い(あきない)の心得”があります。弊誌で取材したご主人や女将さんから伺った”あきない噺”を紹介します。 神田須田町。奇跡的にも東京大空襲の災禍を逃れた街の名物『いせ源のあんこう鍋』。1830(天保元)年創業の当代ご主人は七代目の立川博之さん。以前は築地から仕入れていた鮟鱇を生産者から直接仕入れることにより”いせ源ブランド”を生産者の皆さんが共有してくれるのが「大変嬉しい」といいます。そして現在

          美味しいものと”あきない噺”#2

          日本橋本町 昭和通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#37 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は東京の街を大きく変えました。特に日本橋は魚河岸が築地に移転するなどの大きな影響を受けました。街の区割りや町名の変更も行われ、それまで常盤橋の日銀あたりから江戸通りに沿ってあった本町1~4丁目は1932(昭和7)年の区画整理により、それまで「伊勢町」や「瀬戸物町」などと呼ばれていた「西堀留川」に面したあたりは本町1~2丁目になりました。何より震災復興計画により「西堀留川」は埋立られ現在

          日本橋本町 昭和通り界隈

          美味しいものと”あきない噺”#1

          スローリー余話 いつ食べても”飽きない(あきない)美味しいもの”には長く続く”商い(あきない)の心得”があります。弊誌で取材したご主人や女将さんから伺った”あきない噺”を紹介します。 日本橋室町二丁目。2020年に「むろまち小路」から現在地に移転した創業1889(明治22)年の『蛇の市本店』。五代目のご主人が”伝承の美味しさ”を受け継ぐには「変えずに変える」ことが大事だと語っています。お米や魚、醤油や酢など鮨の食材や調味料は時代とともに大きく変わっています。言わば事業環境

          美味しいものと”あきない噺”#1

          日本橋 むろまち小路界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#36 日本橋の中央通り、日本橋三越本店の向かい側(日本橋室町1丁目)から昭和通り(日本橋本町1丁目)までの通称『むろまち小路』。日本橋に魚河岸があった明治44年の古地図をみると、このあたりは「本小田原町」と記されています。関東大震災後の復興都市計画により魚河岸が築地に移転するとともに大規模な区割りと町名変更が行われ現在の住所表記になりました。現在計画されている「日本橋室町一丁目地区再開発事業」によると『むろまち小路』の中央通り側は近い将来、

          日本橋 むろまち小路界隈

          日本橋本町 時の鐘通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#35 江戸のまちに時刻を知らせるために約2時間おきに撞かれていた『時の鐘』。二代将軍・徳川秀忠の時代に当時の本石町三丁目(現在の日本橋本町4丁目・日本橋室町4丁目あたり)に『時の鐘』が創設されました。 その後、江戸府内の拡張により隅田川を渡った本所横堀(現在の墨田区)や上野寛永寺や芝増上寺、浅草寺などの寺社14箇所で時を知らせる鐘が撞かれていたそうです。なかでも本石町の鐘は「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳に詠まれるなど江戸の時刻を

          日本橋本町 時の鐘通り界隈

          日本橋二丁目 髙島屋界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#34 日本橋髙島屋がある日本橋の南側(日本橋一丁目~三丁目)は徳川家康が江戸の城下町開発当初から全国の商人や職人が集まる街でした。現在の中央通りに面するあたりは江戸期から「通二丁目」「通三丁目」と呼ばれており1947(昭和22)年の中央区誕生とともに「日本橋通」になりましたが1965(昭和40)年の住居表示変更で「日本橋」になるまで「通」の名は続きました。2009(平成21)年に百貨店建築では初となる国の重要文化財指定を受けた日本橋髙島屋の

          日本橋二丁目 髙島屋界隈

          港区 新橋赤レンガ通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#33 新橋2丁目の外堀通りから新橋6丁目の芝方面へ約1キロ続く『新橋赤レンガ通り』。江戸期にはこのあたりから愛宕山にかけて武家屋敷が並んでいました。その後、明治初期の大火により政府が推進した防火に優れた赤レンガ造りの『清隆館』という勧工場が出来たことが名前の由来といわれ当時は洋家具の問屋が軒を並べていたそうです。そして世紀を超え平成の時代に『新橋赤レンガ通り』の新橋四丁目辺りは大きくかわります。 関東大震災後の帝都復興計画にあった「東京都

          港区 新橋赤レンガ通り界隈

          港区 三田界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#32 港区の『三田』の地名由来は諸説あり「伊勢神宮の神田(みた)」や「朝廷の御田(みた)」などではないかと言われています。江戸時代には武家屋敷や寺社の街でしたが1871(明治4)年に「慶應義塾」がこの地に移転しました。福沢諭吉先生が築地鉄砲洲にあった豊後中州藩の中屋敷内に1858(安政5)年に蘭学塾を開き、慶応年間に新銭座(現在の浜松町一丁目)に移転(同地には攻玉社が移る)その後に島原藩中屋敷だった現在地となります。同窓会の名称が「三田会」

          港区 三田界隈

          港区 赤坂通り界隈

          スローリー余話 街の”なりたち”#31 港区赤坂は一丁目から九丁目まで非常に広いエリアに渡ります。一丁目は虎ノ門と接するアメリカ大使館やANAインターコンチネンタルホテルのあるあたり、一ツ木通りなどの飲食店が集まる三丁目界隈。そしてTBS放送センターがあるのが五丁目で和菓子の虎屋赤坂店があるのが四丁目。乃木神社は八丁目で六本木の東京ミッドタウンは実は赤坂九丁目といったぐあいです。この住所表記は1960年代半ばに全国的に行われた改訂によるもので、戦前の1937(昭和12)年の

          港区 赤坂通り界隈