不十分な世界の私―哲学断章―〔13〕

 私自身ではない「他人」を対象にした感情、たとえば私が、ある特定の相手に対して共感や同情の意識を抱くとする。それは、私自身を相手の立場に置いて考える想像力と同時に、相手を私の立場に置いて考える想像力によって捉えられる意識であると考えられる。そこでは、「私と相手が同じ立場にあると想像することができる」という前提において、そのような意識を私自身が持つことが、可能となっているように私自身には思われるところとなる。
 ところで、共感や同情などといった感情・感性・感覚の意識は、対象に対して先行することはないのだ、と言える。感情・感性・感覚はあくまでも、「現に目の前にあるもの」をその対象として成立するものである。ゆえに感情・感性・感覚の対象は、常に具体的であり、常に現実的だと言える。それはまさに目の前にある「これ」なのだ。つまりそれは、現実的な知覚あるいは具体的な経験において、はじめてあらわれるものだと考えられる。逆に言えばそれは、前もって何であるかがわからないようなものであり、それを感性的・感覚的に受け止める「私の意識」は、そのような感情・感性・感覚を「受け止めることでしか知りえない」ということになる。

 アレントは、たとえば同情という感情は、「…まるで伝染でもするかのように他人の苦悩に打たれること…」(※1)だというように表現し、「…ただ情熱的な激しさで苦悩する人そのものにむけられる…」(※2)ものであると言っている。さらにこの感情は、「…他人の受難を見るよりは、自分が苦しむことのほうが楽であるとまったく真剣に、ときにはナイーヴにさえ見えるほど真剣に…」(※3)思いつめ、なおかつ実際にそれを「自分の苦しみに置き換えて意識する」ようなものでさえある、と。
 同情は、その感情を向けるべき対象を、「実際に苦しんでいる、目の前のこの人」の他に持たないところにおいてあらわれる感情として、「この人そのものに向けられている感情」であるがゆえに、その同情という感情、およびそれに基づく表現は、その集中力において「情熱的で激しいもの」となるのだ、と考えられる。しかし注意しなければならないのは、この感情には「苦悩する人を対象化する」という前提があることである。同情は、あくまでも苦悩する人に「特定して向けられる感情」であり、逆に言えば当然「苦悩しない、あるいはしていない人」は、その「対象外」になる。そのようなものは同情の関心の外にあり、そのような「同情の感情が関心を持たないもの自体、その目の前に何もない」と見なされることになる。つまり、苦悩しない、あるいはしていない人そのものが、同情にとっては「目の前にいないもの」と見なされていることになる。

 苦悩もまた、常に具体的な苦悩であることに限り見出される、と考えることができる。それは、感性的・感覚的な対象として、常に「目の前のものに苦悩する」ということに限られている。だから人は、その苦悩の対象が「目の前に現れない限り」は、そこで「何に苦悩することになるのか?」は、前もってわからない。
 ただ、同情が、他人の苦悩をあたかも自分の苦悩のように受け止めることができるということにおいて成り立っているとすれば、その前提には、「自分の苦悩を対象化して受け止めることができる」ということ、言い換えれば「自分の苦悩を他人の苦悩として受け止めることができる」という、意識の対象化の能力があるのだ、と考えることができる。人が「自分の苦悩」を見出すとき、それ=苦悩を自分の意識の対象として、「自分の外部にあるもの」として見出す。自分が苦悩しうるものは他人も同様に苦悩しうるのだとして、その苦悩を対象化して受け止める。その限りで、同情における苦悩は、一般的な対象に向けられた一般的な『概念』としての地位を持つことができるのだとも言える。
 そして意識は、すでに一般的に理解されている「事象の表象」としての『概念』を、その対象に対して「先行させること」によって、その対象を「概念の対象として一般化する」ことのできる能力を持っている、と考えることができる。もし仮に苦悩が「苦悩という事象の概念」であると一般的に理解されているとするならば、意識は「苦悩という概念に当てはまるような事象」を、「苦悩という概念に基づいた一般的な事象」として一般化することができる、というようにも考えることができるのだろう。つまり意識は、「実際に苦悩するよりも前」に一般的な苦悩を考えて、それに当てはまるような苦悩を捜し出すこともできるだろう、とも言いうる。
 「一般的な苦悩」などというものは、たしかに具体的・現実的には「目の前にはない」だろう。しかし、具体的・現実的な苦悩を意識の対象として一般化し、概念として理解することで、目の前にあるこの具体的で現実的な苦悩を、「これは『苦悩』というものなのだ」というように、「一般的な『概念』に当てはめて受け止めることができる」し、人は他の者に同情するときには一般に、常に現にそうしているのだ、ということが言える。そしてあるいは自分自身の苦悩を対象化して、「自分自身に同情する」などということも一般に可能なこととなる。

 しかし、どれだけ一般的な対象化を通してでも、結局「他人の苦しみ」というものは、自分自身には具体的・現実的なものとしてはわからないものなのではないだろうか?たとえ「他人の苦しみが自分に伝染した」と感じても、あるいはそれを「自分の苦しみ」として置き換えたとしても、「他人の苦しみ」と「自分の苦しみ」は、結局「別のもの」なのではないだろうか?「他人の苦しむ様子を見る」ことで、自分自身としてはただ単に「外部的に打たれている」のにすぎないのではないだろうか?そこで自分自身は結局、何も苦しんではいないのではないのだろうか?
 アレントによれば、同情とはまさしくこのような「悩み」を解決するものでもあった。
「…同情の魔法は、それが受難者の心を開き、他の人たちの受難に通わせたことにあった。…」(※4)
 同情は、その「苦悩者=受難者自身」の苦悩を解決=解消するよりも先に、彼らに、「彼らと同じように苦しむ人々」を発見させる。つまり、受難を受難者独自の経験から、同情を媒介にした「共通の体験」に変える。彼らは「受難を共有する人々」と同調することによって、「自分の苦悩」を「みんなの苦悩」に還元し、「苦悩する自分」を、「苦悩する者として見出された自分」つまり「苦悩する人々に含まれている自分」として、「その中の一人として見出された自分」として見出すことができるようになる。「他者において現実に起こった苦悩=出来事」を自らのものとして還元するには、その苦悩が「誰においても起こりうる出来事」として一般化される必要がある。同情においても、この一般化は必要なのだ。「同様の苦悩が誰にでもありうる」ことにおいてはじめて、人は「他人に同情することができる」ようになる。そしてこのように、「同じように苦悩する者たちの内の一人」として、「自分の苦悩を、他の人々の苦悩と共同化していく」ことにおいて、苦悩は、「苦悩者たちの親密な共同体」を形成しうるところとなる。

 たしかに同情においては、苦悩者自身の苦悩は少しも解消されはしないだろう。しかしそれはむしろ、苦悩者自身にとっては好都合なのだ。苦悩者は「苦悩していること」によって、「苦悩していない者たち」から切り離されており、そのことによって孤独を強いられてもいただろう。まるで「自分だけが苦悩している」というように思われたこともあっただろう。少なくともこのような孤独は、同情においては解消される、と思えるはずだ。そして「共に苦悩するということにおいての親密な関係」を維持するためには、むしろこの苦悩が必要だ、とさえ思える。それどころか、この「共に苦悩する」という親密な共同性から、「苦悩しない者たちを排除する」ことだってできる!
 そして一方、同情者においてもまた、「みんなの苦悩に還元された苦悩」であるならば、それを「自分の苦悩に還元して苦悩する」こともできることだろう。「自分自身には苦悩がない」ということに、もはや「悩まされる」こともなくなるだろう。
 ともあれ、同情はまだしも、具体的な対象の現実的な経験としての苦悩を前提条件としていると考えられる。たとえそれが「一般化されたもの」であったとしても、少なくともその「一般化された苦悩を、実際に苦悩すること」は要求されているのだ、とは言えるだろう。同情の親密な共同性は、「実際に苦悩することからはじまる」のだということは、その前提から外れることはないだろう。同情者は、少なくとも「実際に苦悩する者」を具体的・現実的に見出すのでない限りは、その「実際の苦悩に還元された苦悩において自らも苦悩する」ことはしないし、できないだろう。なぜならそこには、「還元すべき苦悩」が見出せないのだから。

〈つづく〉

◎引用・参照
(※1)〜(※4) アレント「革命について」第二章3 志水速雄訳

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