労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈8〉
商品はあくまでも「その商品を買った者の使用価値」であり、またそうでなければそれはけっして「商品」たりえない。逆に言えば商品は、商品「として」はそれを売る者=所有者にとって何ら使用価値を持たないし、持つ必要がない。なぜならそれは彼らが「使用するため」に生産された物では全くないのだから。ゆえにマルクスは、「商品は、その所有者にとってはむしろ非使用価値なのである」(※1)と言うのだ。
たとえば「単三乾電池という商品」の所有者が、もし彼自身でその乾電池を使用して点灯させる懐中電灯を所有していなければ、あるいはその単三乾電池で懐中電灯を点灯させる必要がなかったら、彼にとってその単三乾電池は「全く必要がないもの」であり、したがって彼には「その単三乾電池には使用価値がない」ということになる。だから「使用対象物が交換市場で商品となるとき、それはその私的な使用から抜け出ることとなる」(※2)というような見方は、むしろ全く逆な話となる。ある商品の所有者が、それを「私的に使用している限り」では、その「使用対象物は、そもそも全く商品ではありえない」のだ。商品とは、あくまでも「その所有者自身にとって不必要」(※3)なものとして彼に所有されているのであり、だからこそ彼はそれを「商品として手放す」ことができる、つまり「売ることができる」のである。いや、むしろ彼はそれを「売らなければならない」のだ。なぜなら「それを譲渡する他に、彼は自分の欲するものを取得できない」(※4)のであり、つまり彼は「彼の所有する商品を売るのでなければ、彼以外の者の所有する商品を買えない」のだから。
しかし他方で「商品は、その所有者自身のための使用価値にならなければならない。なぜならば、その商品以外に、つまり他人の諸商品の使用価値の形で、かれの生活資料は実在するのだから」(※5)ともマルクスは言う。どういうことか。
「…一商品はほかの商品の所有者にとっては、それがかれにとって使用価値であるかぎりにおいてのみ商品となるのであり、そしてその商品自体の所有者にとっては、それが他人にとって商品であるかぎりにおいてのみ交換価値となる。…」(※6)
つまり商品の所有者は、その商品を売ることによって、他の者の所有する商品を自由に買えるようになるのでなければならない。すなわちそれによって、彼自身において使用価値のある、他の者が売っている商品を、彼自身が自由に買えるようになるのでなければならない。ゆえに、彼が商品を売るのは、彼が「一方的に売ることで終わる」のではなく、彼が「他の商品を買うことができる権利との交換」として、彼は自分の所有する商品を売るというのに他ならない。つまり「他の商品を買う権利を買うこと」との交換として、彼は、「その商品を売る権利を売る」のである。
商品の所有者は、彼がその商品を売ることによって、他の者の所有する他の商品を買うことができるようになる。その限りにおいて「彼の売る商品」は、「彼が他の商品を買うことができるようになるもの」として、「彼にとって価値がある」ということであり、商品の所有者にとってのその商品の「価値」とは、それに尽きるものなのである。ゆえに商品の「所有者にとっては、商品はただ交換価値としてのみ使用価値なのである」(※7)ということになる。
以上をマルクスの言葉で要約すれば、使用者に使用されることによって使用価値となる、それらの「諸商品の使用価値は、それらが全面的に位置を転換し、それを交換価値とする人から使用対象とする人の手に移ることによって、使用価値となる」(※8)のだと言え、言い換えると「商品の使用価値は、それが流通から脱落するとともに始まる」(※9)ということになる。つまり商品は、「商品ではなくなることによって使用者に使用される」こととなり、そのように「商品ではなくなること」によってはじめて、「その商品の使用価値は、ようやく使用価値として始まることになる」というわけである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 マルクス「経済学批判」
※2 アレント「人間の条件」
※3 柄谷行人「マルクスその可能性の中心」
※4 柄谷行人「マルクスその可能性の中心」
※5 マルクス「経済学批判」
※6 マルクス「経済学批判」武田・遠藤・大内・加藤訳
※7 マルクス「経済学批判」
※8 マルクス「経済学批判」
※9 マルクス「経済学批判」