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病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈47〉

 検事という要職にあった父親の、その職務上の顔とは、息子である少年タルーには思いもよらないものだった。
 みすぼらしく打ちしおれた被告人に対し、父は検事として躊躇も逡巡もないどころか、自信と威厳をいささかも隠そうとはせず、さも当然のごとくに死刑求刑を宣言した。背後に居並ぶ傍聴者たちも、それを後押しかのするように検事の一言一句に対して大いに同意の表情を顕わにしていた。その一連の儀式に漂う、冷酷無慈悲な空気。人々が、現にここに生きている一人の人間の死を強く待ち望む、その陰惨な嗜虐性と暴力性。「その場にいる皆がこぞって、この生きている一人の男を殺そうとしていることを感じ」た若きタルーは、はかり知れないほど大きな衝撃を受けていた。
 一方で、やがては意に沿わない形でその死を求められることになるであろう被告人の、しかしまさに「今はまだ、ここに現に生きている」という、その単純な事実の生々しさが、タルーに己れ自身の「腹を締めつけるよう」な息苦しさをもって、「大波のようにすさまじく」迫ってくるのだった。
 彼は、このときから「心が病気になってしまった」のだと自ら語る。その、温かく穏やかな家庭に育まれた、清廉潔白だと自分自身でも思い込んでいた少年期の幼い自我は、この瞬間たわいもなく崩壊し、「中庸の精神」を旨としていると思われていた父親の、その人柄に対する尊敬の念にも支えられていた、彼の若く純粋素朴な倫理観が、無惨にも跡形なく吹き飛ばされてしまった。そしてこのとき、彼の中で「人間」が死んだ。

 それから一年ほどが経ち、彼は誰にも何も告げることなく、生まれ育った家を飛び出した。
「…僕は、楽な暮しからとび出すと、十八で貧乏を知った。自活するためにそれこそいろんな仕事をやった。これもそううまくいかないこともなかった。しかし、僕の関心の的は死刑宣告というやつだった。僕は例の赤毛の梟とはっきりきまりをつけたかったのだ。その結果、僕は世間でよくいう政治運動をやるようになった。ペスト患者になりたくなかった−−それだけのことなんだ。僕は、自分の生きている社会は死刑宣告という基礎の上に成り立っていると信じ、これと戦うことによって殺人と闘うことができると信じた。僕はそう信じたし、ほかの連中も僕にそういったし、また結局のところ、それは大部分真実だったのだ。それで僕は、ほかの連中−−僕が愛し、しかも変ることなく愛し続けた連中と行動をともにした。…」(※1)
 広くヨーロッパ一帯を範囲とする、おそらくは「反体制的」な党派の政治的活動にタルーは加わった。その緊張に充ちた日々を過ごす中でタルーは、信ずる正義を成し遂げることで、より善い世界を作り上げるためには、少なからずどうしても払わなければならない「犠牲」というものも、やはり避けられずあるものなのだということは、次第に現実の問題として理解するようにはなっていった。
 「われわれの党派」に反対あるいは敵対する者、また「われわれの指導」に従わず規律を破る者、さらに「われわれ同志」を裏切り敵対勢力に売り渡そうと画策する反乱分子などは、「われわれの正義」によって裁かれ、鉄槌をもって断罪されなければならない。もうそれ以上の犠牲が生じるような事態を防ぎ、多くの罪なき人々が、ゆえなき苦しみから救われるようになるためには。
 しかし彼はそのような「粛清」行為に対して、いかんせん躊躇を感じずにいられなかった。そしてそういうときにタルーは必ずあの被告人の男、父の裁判において断罪された、あの赤毛のフクロウのことを思い浮かべるのだった。いや、あの顔あの姿が頭から離れないことに、彼の心はどうにも抗うことができなかった。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳

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