労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈9〉
労働者の労働は「一般的な労働」として抽象され、「労働力」という商品として市場に持ち出され売られる。そして一定の価格において買い取られた労働力は、彼を買った者が所有する生産手段の生産力として、一定の機能において使用されるために、その使用者の手元に集約される。一定の機能において使用されるために集約された生産力は、その機能を果たしうる「同一あるいは同程度の生産力」であることを、その生産力の使用価値の実現である「実際の労働」において要求されることになる。
そのような「集約された生産力」の、生産手段としての機能を実現する「主体」、言い換えると「労働の分業の条件下にある労働過程の主体は、集団的な労働力であって、個人の労働力ではない」(※1)のは明白だと言えるだろう。すなわち、その「実際の労働の実現は、個々人の実際の労働の実現ではない」ということになるわけである。労働者の実際の労働において実現されているのは、あくまでも生産手段としての機能である。そしてその生産活動の主体は、あくまでもその生産手段の使用者に他ならないのだ。というわけで、労働者の実際の労働は、生産手段を使用して生産された生産物=商品に「集約されたもの」として、いわば「いっしょくた」に溶かし込まれる、「誰が労働したのか」さえ、もはやわからなくなるまでに。
「…労働者は彼の生命を対象のなかへ注ぎこむ。しかし対象へ注ぎこまれた生命は、もはや彼のものではなく、対象のものである。したがって、この活動がより大きくなればなるほど、労働者はますます多くの対象を喪失する。彼の労働の生産物であるものは、彼ではないのである。したがってこの生産物が大きくなればなるほど、労働者はますます自分自身を失っていく。…」(※2)
「労働力が商品として買い取られる」ものである限り、「買い取られた労働力」は労働力の所有者すなわち労働者が「所有するもの」ではもはやなく、労働力の生産力を生産手段として使用する使用者が「専有するもの」となるのである。したがって「生産手段としての労働力」は、「労働者個人のもの」ではありえない。「生産手段として使用される生産力として労働する限り」において、彼の労働は全くのところ「彼の個性の発現」ではないどころか、労働者は彼の労働力がその使用者に買い取られている限りにおいて、「彼自身のために労働する」ということさえ、つまり「彼自身の生活に必要なものを、彼自身によって生産すること」さえ、たとえ一分一秒たりともできないのだ。
そのように、労働者が「自分自身のために労働することができない」ということ、労働者が「自分自身の生活の維持に必要な分だけの労働、あるいはそれ以上の剰余を彼自身にもたらす労働を、自分自身のためにすることができない」ということ、労働者が「自分自身の必要なもののために働き、また、それ以上のもののために働くことのできる自由と可能性を失う」ということ、それらの「代償」として、「彼のための賃金」は彼に対して支払われることになる。そして彼は「その賃金をもって、彼の生活の維持に必要な生活資料を、商品として買うことができる」のである。彼が生活資料として買う商品は、市場において多種多様かつ大量に売られており、彼はその中から自由に選択して彼に必要なもの、あるいは彼の好きなものを「自由に買うことができる」だろう。しかし彼には「商品を買うこと自体については、全く選択の余地がない」のである。彼は、自らが必要とする生活資料を「商品として買う」ことができなければ、その生活の維持することすら全くできないのだから。
繰り返して言うが彼には、いや「全ての人々」には、自分自身の生活に必要なあらゆる物資を「商品として買うことそれ自体」に、選択の余地は全くない。だから彼は、いや「全ての人々」は、「商品を買うために商品を売らなければならない」のであり、そして彼あるいは「ほとんどの人々」にとって、「売ることができる商品といえば労働力しかない」のである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 アレント「人間の条件」
※2 マルクス「経済学・哲学草稿」城塚・田中訳