シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈11〉
「…不幸のために自由な同意の能力をとり去られている他者に対して、そのような能力を生じさせようとするのは、他者の中に自分からはいりこんで行くことであり、不幸に対して自ら同意を与えることである。すなわち、自分自身を破壊するのに同意することである。つまり、自分を否定することである。…」(※1)
「…注意力とは、自分の思考を停止させ、思考を待機状態にし、思考を空しくして、対象へはいって行き易いようにし、利用すべき既習のさまざまな知識を、自分の内部で思考のごく近くの、思考よりは低くて、直接に関係のない段階において保持していることである。…」(※2)
「…思考は自らを空しくし、待機状態にあって、何も求めないようでなければならない。しかも、思考の中へ入りこもうとする対象を、その赤裸な真実のままにむかえ入れる準備ができていなければならない。…」(※3)
「…注意がはたらいているとき、それは自分を捨てつつあるのだ。少なくとも、その注意が純粋ならば、そうだ。人間は、エネルギーを使いつくして、ひたすら潜心するとき、いわば、自分をすり減らしているのである。そのようにエネルギーを使うのも、自分の権限を拡大するためではなく、ただ、自分以外の存在、自分より独立して存在するものを生かそうとするためである。さらに、他者を生かそうとするのは、いわば、共感によって、他者のうちへ入りこむことであり、したがって、他者のおちこんでいる無気力な物質的状態に参加することである。…」(※4)
他人の不幸を買い取って、自分の幸福と入れ替えてしまうようなこと。あるいは、自分の不幸と他人の不幸を重ね合わせて、それを「同じような不幸」として見出すということ。
そのような、「他人の不幸に関心を持つ」人がよくやりそうなこと(と、自分自身が不幸であるような人が、他人に対して疑念を持つようなこと)ではなく、他人の不幸をただ「注意力」をもって見つめる。自分自身の思考、あるいは自分自身という思考を捨て、「無」の状態で他者の心に入っていけるよう、自分自身を準備しておくこと。
「…何ごとにおいても、どんな特別な目的があろうと、それを超えて、むなしく望むこと、真空を望むこと…。」(※5)
自分自身を徹底的に破壊し、否定し、慰めを求めず、無になる、真空の状態になる。自分自身などというものがなくなって、その自分自身に対する注意力などというものが不必要になったとき、そこではじめて人は、「他人の不幸」と関わりを持つことができるところとなる。ふいに道端で不幸な人と出会っても、いつでも彼らを見逃さずにいることができ、彼らのそばに寄りそうことができる。彼らの不幸な状態に「参加」することができる。
他人の不幸に「参加する」ためには、まず何より「私自身の不幸」に対する執着を棄て去れなければならない。そうでなければ、他人の不幸を本当に「自分自身のこと」として自分の魂の中に迎え入れることができない。聖書に書かれているような、「自分自身を愛するように他者を愛せ」などという境地に立てるわけもない。
そもそも、不幸に対して「私の」などと名前をつけているということが、それに対する執着なのだ。だから、「…まったく執着から離れきるためには、単なる不幸だけでは十分ではない。慰めのない不幸が必要…」(※6)なのである。自分自身などというものは、徹底的に見捨てられ、踏みにじられなければならない。慰めを得ることができるかもしれないなどと期待しているから、その我が身の不幸に対する執着を捨てられない。自分自身が徹底した不幸、根源的な不幸、慰めのない不幸の中で、自他の区別のつかないまでに人格も何もかも奪われなければ、「私」は他者を、他者の不幸を、見つけ出すことなどできないのだ。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)ヴェイユ「神への暗黙的な愛の種々相」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※2)ヴェイユ「神への愛のために学業を善用することについての省察」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※3)ヴェイユ「神への愛のために学業を善用することについての省察」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※4)ヴェイユ「神への暗黙的な愛の種々相」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※5)ヴェイユ『重力と恩寵』
(※6)ヴェイユ『重力と恩寵』
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)