病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈29〉
『ペスト』執筆の初期段階においてカミュは、パヌルー神父が信仰を失うことになるモチーフを繰り返し練っており、それを作品の重要なテーマに置いて構想していたとみられる。
「…ある若い司祭は、傷口からふきだす真っ黒な膿を見て信仰を失ってしまう。(※原注 はじめカミュは、パヌルーが信仰を失うことを考えていた、と言われている。それは『ペスト』の最初の段階ではまだそのままにされていた。)…」(※1)
ちなみに実際の『ペスト』作中においてこのエピソードは、戦争中目を潰された男を目撃したことにより、自らの信仰を失ったある司祭の挿話として、タルーの口から語られることになる。そして彼はこの司祭とパヌルーのことを対比させて、パヌルーが自らの信仰を失わないために「とことんまで突き進むつもり」であろうという予測を、リウーに話して聞かせるのであった。
さらにまたカミュの構想段階において、リウーは「医学」の側からパヌルーとの対決を試み、医学あるいは科学の「理性=客観性=相対性」によって、神への信仰とその無謬性を絶対とする「宗教」の側、あるいはその象徴としてパヌルー神父の立場を打ち負かし、そしてそのように打ち負かされたまま神父は、ペストによる自らの死を受け入れて息絶えるというような展開も、一つのプランとして持っていたように見受けられる。
「…医学と宗教の戦い。絶対の力に対抗する相対(それはまたいかなる相対か!)の力。勝利をおさめるのは、あるいはより正確に言えば、勝利を失わないのは相対的なものだ。…」(※2)
「…「医学」と「宗教」。それは二つの職種であり、互いに一致するものであるかのように見える。だがすべてが明らかである今日では、それらは相一致しないものであり、相対性と絶対性のあいだで選ばなければならぬものであることはわかっている。《もし私が神を信じているなら、私は人間の看護をしないだろう。もし私が、人間を治癒することができるという考えをいだけば、私は神を信じないだろう。》…」(※3)
「…医者は神の敵であり、かれは死と戦う。…」(※4)
「…リウーは、自分は死と戦っているのだから神の敵であり、神の敵であるということが自分の職務でさえある、と言った。かれはこうも言った。パヌルーを救おうと努力を重ねることで、同時にかれはパヌルーが間違っていることを示し、一方パヌルーは救いを受けることを承知することで、自分が正しくないこともありうると認めたのだ、と。パヌルーはただ、結局は自分のほうが正しいのだろう、なぜなら疑いもなく自分は死ぬからだ、と言った。するとリウーは、要は屈服しないことであり、最後まで戦うことだと答えるのだった。…」(※5)
結局このような「神学的」問答が繰り広げられるというイベントは、物語の上では実現しなかったし、また、パヌルーが直接的に「負けて(あるいは「屈服して)」死ぬような描かれ方はされなかった。
それはパヌルーとしてはもちろん、一方のリウーにとっても、さらには作者カミュ自身においても、むしろ良いことであったようにも思える。もし彼らの「戦い」なるものが、そのそれぞれが考えていた通りに、「ただ単に人と人との間にあるものとして終始するのではなかった」ということなのであるのならば。
逆にそれが実際に書かれたとしたら、そこには人と人との間で幾度となく繰り返され続けてきた戦い、すなわち「戦争」の有り様が描かれることになっただろう。少なくともそのような戦争の当事者にはならずに済んだということは、やはり彼らにとって幸いであったと言うべきではないか。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 カミュ「手帖1−太陽の讃歌」高畠正明訳
※2 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳
※3 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳
※4 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳
※5 カミュ「手帖2−反抗の論理」高畠正明訳