シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈6〉
人生を根だやしにする不幸、あるいは生命が根こそぎにされる不幸とは、言い換えれば生命が不幸に連れ去られて行く、あるいは人生が不幸に奪い去られるようなものであり、その根こそぎ・根だやしにされた後には、もはや生命や人生の痕跡が何も残っていないような有様であろう。まさしくそれは生命・人生にとって「死に等しいもの」なのだと言ってよい。
また、不幸はそれによって「不幸を感じる」ような、ある出来事そのもののことを指して言うものではなく、「それを伴ってあらわれる」ようなものだとも言える。逆に言えば、たしかに不幸の方でも「その出来事に伴われてあらわれる」、あるいは「その出来事が不幸を連れてくる」のだとも言える。
ところで、この「不幸を連れてくる出来事」とは、どこか他のところから現れて、やがて去っていくような、一過性の災難のようなものではなく、むしろ連れ立って生命・人生を他のところへと運び去ってしまうようなものであり、ゆえに「不幸に連れ去られた生命・人生」は、彼を運び去った不幸と、それと連れ立っている出来事と、それらに連れ去られた後においてもなお、それらと連れ立って生きていかなければならないということになる。不幸となった生命・人生は以後、「その不幸と、それを連れてきた出来事と、常に一体となって生きていく」ことになるのだ。なぜなら、不幸に根こそぎにされた生命・人生は、もはやどこにも根を持たないがゆえに、自分自身ではどこにいることもどこに行くこともできない。不幸に根こそぎにされた生命・人生が、「自分自身とは何であるか?」を知ることができるのは、もはや彼と一体となって連れ立って生きている不幸と、その連れとなる出来事の「手引き」によってでしか、「生き方を知ること」ができない。
また、人はひとたび不幸に囚えられれば、もはや「不幸ではなかったところ」へと戻ることはできないと言える。「いずれ不幸ではなくなる」ようなことがもしあるとしても、むしろそれこそが「一過性」のものでしかない。「いつかまた不幸になるかもしれない」と怯えて暮らす人の心には、「すでに・つねに不幸が存在し続けている」のだ。
ヴェイユが、自分自身の感覚の経験から押し広げて見出した「労働者たちの不幸」について、「奴隷」という言葉を持ち出しているのは(※1)、その意味で言うなら、あながち比喩ではないと言える。目の前に不幸が現れて去っていくということではなく、不幸に連れ去られ運ばれていく生命というのは、まさしく「奴隷の現実そのもの」である。不幸が彼らの存在を条件づけているのであり、「その条件を失う」のであれば、彼らはもはや生きていくこと自体ができない。奴隷は、生き続けているために、不幸そのものを「必要」とさえしなければならない。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)ヴェイユ「工場生活の経験」など(『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』所収)
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)
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