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自分の苦難は自分で背負う
私が大切にしていることの一つに「自分の苦難は自分で背負う」というのがある。
なぜなら、これまで生きてきたなかで「安易な道を選ぶと他人のせいにしやすい」という感覚がなんとなく培われてきたからだ。
人間、人に言われた通りに動くのが簡単である。楽である。それは自分の頭を使わなくて済むから。省エネモードで結果を出すことができるからだ。例えば信号機。赤なら立ち止まる。青なら進む。いちいちイアホンを外して聞き耳を立てたり、左右を目視確認したりせずとも、ある程度の安全性を確保して交差点を渡ることができる。このように「ルールは楽」なのだ。
私はそこに罠があると思っている。
信号を厳守していても損害を被ることがあるように、ルールは完璧じゃない。ルールはあくまで「全体最適のためのルール」であり、個別具体的に効率的とはいえないのだ。「周囲に車がいないのは明らかなのに、赤信号だから立ち止まる」という行為は私にとって「全体最適のための代償」であり「自分のことだけを考えれば明らかに無駄なこと」だ。
一方「この世に無駄なことはない。もしくは一切が無駄なことである」という信念的なものもあるので、さっきのようなケースでは「ああ自分はなんて無駄なことをしているんだ。これは生きている証だな」と、一人で生を実感している。
日々色んなことを考えるが、結局は「生の実感」を経由し、「人生を自分なりに味わおう」という決意にたどり着く。その境地に居続けることが身体的精神的にも合理的な人生だと信じているから、もはや自己暗示かもしれない。非合理な人生から逃げたくてたまらないのだろう。
人生(生命)の目的は死であるという真理に至るまでも苦行、至ってからも苦行である。
他人(社会の規律含む)の言う通りに生きていくのが一番楽で、能天気で居られる。上手くいかないことがあれば、どす黒い悪意を「お笑い」という薄っぺらいオブラートに包んで吐き出し、環境や他人のせいだったということで脳内処理できる。程度の違いこそあれ、皆そうして生きている。
例に漏れず私もその一人だが、自分の苦難は自分で背負いたい。全体最適に貢献しつつも、楽をしたが故に損害を被り他責にしてしまうことがないよう、自分の五感を信じ、使っていたい。脳死で信号を渡るのではなく、しっかり自らの目で左右を確認したい。それにはちょっとした労力を要するが、人間として、動物として本質的な生き方であるように思う。