あっこ
2002年頃の愛媛は松山、道後温泉。元花街にひなびたコンパニオン派遣事務所があった。18歳の主人公は事務所から派遣されて、地元の若者に混じってケンブンの宴会場で働く。ある日、人手が足りないということでマドンナの格好をして結婚式でコンパニオンをすることになり…?!
上海に住んでいた2年間の徒然話
2002~8年頃の富士山の山小屋を舞台に繰り広げられる青春エッセイの下書き。事実を元にしたフィクションです。 そのうち編集します。
旅漫画です
アイスは1日三個まで。それが青春の掟。 上海 上海 台湾 スペイン・コルドバ また上海 ときて、次はどこのアイス?!
2024年10/30 画像お借りしました。ありがとうございます
県民文化会館のウェイトレスの仕事に慣れてきた頃だった。サニーカンパニー事務所に出勤すると、カナさんが声を掛けてきた。 「あっこ、あんた土曜暇なんやろ?婚礼のコンパニオン入ってくれんかね?人数足りとらんのよ」 道後の町には、有名な道後温泉本館を取り巻くように、要塞のようなホテルがいくつか、山の斜面に壁を成して建っていた。その中の一つ、「椿館」に行ってこいと言うのだ。 タケウチさんがよく派遣されとる「小湧」というホテルの話は小耳に挟んだことがあるのだが、「椿館」は初めてで、
その日は油絵のモデルだった。ポーズは20分、タイマーが鳴れば5分休憩。それを1セットとして、合計 6セット。最初のポーズを終えて休憩に入ったところだった。傍らに置いたバックの中から携帯のバイブが響いていた。見ると兄からの着信。普段電話をしてくることなど無かった。これは只事ではないと電話を取る「どうした?」「今病院に行ったら看護師さんがバタバタしてて処置中だから、と病室に入れなくて。廊下で待ってるとこ。なんか急変したらしい。今、意識なくて昏睡してるって」 「え…」 昏睡ってあ
社会人一年目。 一人暮らしは慣れていたけれど、収入が心許なかった。風呂なしトイレ共同アパートに住んでいた。 大学附属学校に週に三回早朝から深夜まで勤務して、月に七万円ほどにしかならなかった。携帯代や税金なんてとてもじゃないが払えない。 繋ぎの仕事として、まず恵比寿のウェスティンホテルの宴会場の派遣に登録した。それまでもホテルオークラでバイトしていたので、まあまあ仕事はやれていた。だが、ある日シフト希望を出すマネージャーの電話番号を誤って消してしまって、わざわざ会社に電話する
土曜出勤した帰り路。 お昼時だしご飯いこー。と、数人でタクシーに乗り合い、浦東のケリーホテルへ向かった。目当ては低層階のレストラン。5つ星ホテルといってもまだ上海の物価が安い時代。小洒落たエスニック料理屋でも1000円もあればお腹いっぱいになれた。 バリ風のでかい観葉植物やトーテムポールの置かれた店内。まったりした雰囲気の中、アイスコーヒーを啜りながら、主任が少年のようなニシシ笑いで、話を切り出す。 「ねぇねぇ、聞いた話なんだけどさァ、政府のスパイって普通にその辺にいるらし
19〜24歳、夏は富士山にいた。 標高3100㍍にある山小屋の厨房で働いていた。 巨大なリュックを担ぎ、4時間かけて登った初日。霧雨を全身に浴びて、ビショビショだった。 緊張して挨拶した山小屋の親父さん(社長)はキツネの尻尾のついたロシア帽子をかぶって、いかにも山男といった風情。手を付いて「よろしくお願いします」と言うと、ぶっきらぼうに「おう」と言ったきり他の従業員の所へ行ってしまった。 「あっこさん、あなた沢庵もまともに切れないわけ?」 厳しい先輩達にしごかれる日々
鳥の苗族【とりのミャオぞく】と呼ばれる部族が居た。 鳥というのはあの空を飛ぶ鳥のことだ。車では到達できぬ高山に住み、暮らす部族だ。 13年に一度の大祭・鼓藏节(guzangjie)では、飼っている水牛の首を全て切り落とし生贄として捧げ、家紋を染め抜いた高い高いのぼりを、神がよく見えるようにと空に掲げる。 村の男たちは妻や母が1年も掛かって刺繍した着物を身に着け、藍色のろうけつ染めのターバンを頭に巻き、鳥の風切羽で腰回りを装飾し…鳳凰に見まごう程に壮麗に着飾って、祈りをさ
道後温泉の裏には花街がある。温泉本館の側道をゆるゆる登っていくと、左手に上人坂なる路が現れる。さらに登ると、一遍上人の宝厳寺に辿り着く。上人坂は昭和の時代にはネオン坂と呼ばれバーやパブが軒を連ねていた。私もここの【バー姉妹】といううらぶれた看板と、宝厳寺の大銀杏のおかしな取り合わせを、上人坂下から見上げたスケッチとして描いた覚えがある。 それくらい、かつての道後は、俗世間と聖なるものが分け隔てなく共存し、そのカオスぶりが旅人の目を惹き付けたものだった。 さらに遡り明治時代に
池尻大橋駅の地上出口付近が通学路だった。 国道246号線とクロスする目黒川の橋の上を歩いて、高校に通った。スーパーマルショウ手前の橋に立つ。南には有名な桜並木、北西には三宿の住宅街。その場所から見えるのはなんでもない街の風景だったが、なぜだか私の心を惹きつけた。 下校時、午後四時くらいに橋の西側に見えるのは、水色やうすオレンジの色彩が棚引く空。遠くのマンションや公園の木々が、ホワイトアウトしそうなまばゆい背景の中でノスタルジックに輝いて見えたものだった。 あの街に住む人々は、
1月4日。初レッスンを終えバタバタと長机を畳んだりしていると、あっという間にあたりは墨汁を撒いたような暗闇に包まれる。絵画教室のアシスタントの男の子が、ふと雑巾がけの手を止めた。 「あのー先生、紅白観ましたか?」「観たよ」 「なんかすごく変わった人いたんだけど、なんか、赤い袈裟みたいの着て歌ってた人…名前なんだったっけ…ふじい…ふじい…」「「ふじい かぜ」」 声がダブった。「あの人、死ぬのがいいわ、みたいなこと歌ってて印象的だったー」「www」 で、その場でググったら、風さん
東京育ちの私はいつからか大阪が好きになっていた。兄が(元)奥さんの地元·大阪へ移り住んだのだが、下手くそな大阪弁を喋り、天王寺の風景に馴染んでいく兄を見て、それが羨ましかった。当時はまっていた『大阪ハムレット』(森下由美·著)という漫画の影響もあり、派手さともの哀しさ表裏一体の人情の街というイメージを持っていた。 目黒の新築オール電化の白い家に住んでいた私は、ずっと京都に憧れていた。古い寺社や御神木、黒黒と磨き上げられた木造の店屋。聖護院八ツ橋の硬さと都路里の抹茶パフェの苦
リーダーの声が響く「いらっしゃいませ!」 続いて他の者が声を揃えて言う「いらっしゃいませ!!!」 料飲部のスタッフが勢揃いで、広間に等間隔に立ち、お客様を出迎える。お辞儀の角度は90度。頭を下げている時間はたっぷり10秒。この仰々しいお出迎えを見たお客様に自分は王様か、姫様か、と感じてもらえればパーティーの間の気分は上々…。 我々給仕人は待機するときは右手を左手で軽くにぎる。これは、「利き手を抑えることで、私はあなたに逆らいませんよ」という主従関係をはっきりさせる仕草なんよ、
道後商店街の黄ばんだアーケードを抜け、農協の脇の小路に入る。澄んだ水が流れる側溝沿いに歩くと、左手に巨大な四角い建造物が見えてくる。建物の手前で、バイトリーダーのタケウチさん(推定20歳)がくるりと私の方を振り向いた。日本人形みたいな顔立ちだ。やたらと目の上が青く唇が紅い。「新人さんこれが【ケンブン】、今日の派遣先よ」ケンブンってなんのことや?と思いつつ、ついていく。通用口の脇にでっかく【愛媛県民文化会館】と看板があった。ああ〜ケンブンね。略して言われてもわからんわ笑。 警備