27歳のショートトリップ京都大阪編
東京育ちの私はいつからか大阪が好きになっていた。兄が(元)奥さんの地元·大阪へ移り住んだのだが、下手くそな大阪弁を喋り、天王寺の風景に馴染んでいく兄を見て、それが羨ましかった。当時はまっていた『大阪ハムレット』(森下由美·著)という漫画の影響もあり、派手さともの哀しさ表裏一体の人情の街というイメージを持っていた。
目黒の新築オール電化の白い家に住んでいた私は、ずっと京都に憧れていた。古い寺社や御神木、黒黒と磨き上げられた木造の店屋。聖護院八ツ橋の硬さと都路里の抹茶パフェの苦さ。智積院の襖絵。建仁寺の龍の天井画。三条大橋の有名なたわし屋。美大仲間から、京都には一見さんお断りの絵具屋や筆屋があるらしい、と聞けばそのイケズさに心がときめいた。
私には暇さえあればどこか遠くへフラフラ行ってしまう癖がある。15で松尾芭蕉にハマり、16でバイト代握りしめて友達と東北へ(俳句を詠みながら旅してたwww)。18の頃は、田舎へふらりと行って帰ってこず、そのまま道後温泉で働いたり、祖父のヨーロッパ旅行へついていったり。実家に帰ってきたと思ったら、進学のため他県へ移り一人暮らし。磐梯山、野沢温泉、鴨川での風景画実習、夏休みは富士山で住込みバイト、得た給料で 恐山、瀬戸内、知床へスケッチに。韓国フランス香港台湾スペインポルトガル。香港が好きになり、台湾をホームステイで転々とし、迷子になる。そして上海へ渡り働く。
ここまで転居回数18回。
草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
コレが私の半生である。
周りにいたハイソサエティの子女とは違うのが、
海外に滞在する自分に、なんの精神的な高みも専門性も経済的成長も見出していなかったところである。
私はただその国にいて、街の通りに出て、息を吸って吐き、2歳児並みの現地語を覚えては使ってみて、拙い会話をしてドヤされるのを愉しんでいた。豚の脚や鶏が吊るされてる路地を歩き、麻辣汤麺をすすったり、八百屋トラックの子連れ夫婦を観察したりしていると、五臓六腑に自由が染み渡り、エネルギーをチャージできた。
【つづく】