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御教え

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金光大神(こんこうだいじん、金光教の教祖)の御教えを,毎日頂きます。
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2020年11月の記事一覧

神は頼まれておらん

神は頼まれておらん

お祓ばかり言うて、信心がなければ、氏子は天地の神に頼んだと思うておっても、神は頼まれておらん。それでは相損じゃ。

 金光教教典
 329頁
 島村八太郎
 19

おはようございます。

上の空でご祈念するということ、ありませんか。心を入れよう入れようと思うほど入らない時があります。
それでは神様に届いていないというご指摘で、申し訳ないことです。

空念仏という言葉がありますが、仏教でも同じこ

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お札には墨がついとるのみ

お札には墨がついとるのみ

お札には墨がついとるのみ。お祓は言うほどずつ消えてゆくぞ。心をつけて教えて、おかげをいただかせよ。

 金光教教典
 329頁
 島村八太郎
 18

おはようございます。

御守り札は単なる印刷物。
ご祈念の言葉は、それを言う尻から消えていく。

大切なのはお札を頂く心であり、ご祈念を唱える心である。

教祖様はこのことをおっしゃっています。

*

「お札には墨がついとるのみ」。

なんと痛

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年中言い通した者よりまし

年中言い通した者よりまし

お祓は神に奉るものではない。自分の戒めのために書いた物。一度読んでも、それをわきまえれば、年中言い通した者よりましじゃ。

何百度あげても、神がお受けくださらねば、言うたお祓は消えてゆく。消えてゆけば相損になって、時間を費やせば家業はできず、家が貧乏になって、人にそしられ笑われて、神様のごひれいを汚すことになるぞ。

 金光教教典
 329頁
 島村八太郎
 17

おはようございます。

お祓と

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天と地と人とのこと

天と地と人とのこと

三宝(さんぼう)様ということは、天と地と人とのことをいう。

神も人なければ用なし。また、まつる者もなし。米麦も人なければ用なし。また、作る者もなし。

 金光教教典
 329頁
 島村八太郎
 16

おはようございます。

三宝とは、もと仏教用語で、仏・法・僧をさしていましたが、ここにあるように、天・地・人を指したり、また、穀物を指す場合もありました。

教祖様は、日天四・月天四・金神を三

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気に入らぬことを辛抱させるような不徳なことでは

気に入らぬことを辛抱させるような不徳なことでは

他人に、わずらわしいこと、気に入らぬことを辛抱させるような不徳なことでは、神徳はいただけぬぞ。

 金光教教典
 329頁
 島村八太郎
 15

おはようございます。

何が気に入らないのか、むっつりと黙り込んで、触れなば切るぞという感じの人がいます。

ああでもない、こうでもないと批判・文句ばかりいう人がいます。

若い頃の昔のわたしです(今は卒業していると思いたいです)。

そんな時、いいこ

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心配すな

心配すな

日乃大神のお照らしあるうちは心配すな。

 金光教教典
 328頁
 島村八太郎
 14

おはようございます。

日乃大神様(お天道様、太陽)のお照らしがなくなるということはありません。
ですから、心配するなということがこの御教えの主旨になります。

生きること、死ぬこと。そして、その間(生まれてから死ぬまで)の病気や辛いことやいろんなこと。
なにがあってもおかげになるから、心配するな、とおっし

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生き死にの安心のおかげ

生き死にの安心のおかげ

生きた母がかわいい子の手をとってさえ、病を治すことができまいが。

死んだ神にすがっても、生き死にの安心のおかげを受けることができるか。

 金光教教典
 328頁
 島村八太郎
 13

おはようございます。

病気の子どもを、母親であろうとも治すことはできません。
死んだ神もまた同じです。

この御教えはその事を言っています。

死んだ神とは、「氏子あっての神 神あっての氏子 あいよかけよで立

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生きた神にすがりてこそ

堂宮へ参拝して、おかげがいただけるか。堂宮は死んだ物なり。生きた神にすがりてこそ、おかげがあるぞ。

 金光教教典
 328頁
 島村八太郎
 12

おはようございます。

「堂宮は死んだ物なり」とおっしゃるのは、教祖様が苦難の前半生を過ごしておられた時、神社仏閣にお参りしても「片便で願い捨て」であったことをさしておられます。

「生きた神」とは、「氏子あっての神 神あっての氏子 あいよかけよで

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形を去りて真の神になる

形を去りて真の神になる

生神金光大神といいしも、今までは形があったから暑さ寒さも感じたが、これよりは形を去りて真の神になるから、一目に氏子を守ることができるわい。

 金光教教典
 328頁
 島村八太郎
 10

おはようございます。

教祖様、神去り(御帰幽)の時のお言葉として、島村八太郎師が伝えておられます。

教祖様にとって死とは真の神になることだった、ということが分かります。
晩年百日修行を2回しておられます

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生きとる時に神に

生きとる時に神に

生きとる時に神になりおかずして、死んで神になれるか。

 金光教教典
 328頁
 島村八太郎
 10

おはようございます。

死んだら霊になるとか仏になるとか言います。が、このお道では、生きている間に神になった人が霊神(みたまのかみ)になれます。

神とは、人が助かる働きそのものです。
家族や周りの人が助かる働きをし続けた人は、死んで後、人が自ずから手を合わせるようになります。それが神になると

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自分も一つの神

自分も一つの神

自分も神の子なれば、一つの神ではないか。

 金光教教典
 328頁
 島村八太郎
 9

おはようございます。

教祖様の御信心の特徴は、神と人とがつながっているということです。「一つの神」である自分も人も、大切にしなければなりません。

でも、その人間が難儀にとらわれると、あっという間に神様から離れてしまいます。

*

信心とは、神様が喜ばれるような心のあり方、行いに取り組むことです。

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ものを言う神

ものを言う神

天地の神は厠(かわや)の内にもあるぞ。されども、ものを言う神は金光大神よりほかにないぞ。

 金光教教典
 327頁
 島村八太郎
 8

おはようございます。

神様はお手洗いの中にもおられて、わたし達の大小を受け止め、守ってくださっています。

そのことをお取次の場で、言葉にして教えてくださったのが金光大神様です。

*

友が遠方より来てくださり、話を重ねました。
いいことを教えてください

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神の子の人をもって使いとなさる

神の子の人をもって使いとなさる

真の信心ある者は神なり。ゆえに、神の取次ができるのじゃ。

 金光教教典
 327頁
 島村八太郎
 7

おはようございます。

学院を出て教師になっているからと言って、お取次の御用ができるわけではありません。
父親母親が教師であり取次者だからと言って、お取次の御用ができるわけではありません。

真の信心を頂き、神とまで言われてはじめて、お取次の御用ができます。
真の信心は一日一日です。昨日、真

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忘れさえせねば

忘れさえせねば

氏子が忘れさえせねば、神は忘れぬぞ。

 金光教教典
 327頁
 島村八太郎
 6

おはようございます。

食卓のいつもの席に座っていつもの時間にごはんを頂く時、「食前訓」「食後訓」はたいがい忘れません。
でも、外に出て親しい友人と一緒に食事をする時、忘れてしまう。

毎日使ういつものお手洗い。「四つのお礼」の内の「お手洗い」はほとんど忘れません。
でも、外に出て、時間を気にしながら駅のお手洗

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