西川太
金光大神(こんこうだいじん、金光教の教祖)の御教えを,毎日頂きます。
秋の忙しい時など、女にいたるまで足を汚しているので、ご飯を神様にあげなければと、よだって(大儀がって)あげるのでは、神は喜ばない。 それよりも、釜の中で少々かき寄せて、神様と言って拝んで、それをよく混ぜていただけ。神はそれを喜ぶ。 金光教教典 493頁 河本虎太郎の伝え 5 おはようございます。 例えば病院で寝ているとき、起き上がって拝礼できなければ、横になったままで「金光様」と唱えるだけでも神様に通ります。 形を整えられるときはきちんと整えて、それができない
信心をしていれば、産の方でし損なうようなことはない。隣知らずの安産をさしてやる。 よかり物によりかかるようなことはするな。命がけと思って、横になって産むがよい。 そうすれば、肥立ちも早いおかげをやる。 金光教教典 493頁 河本虎太郎の伝え 4 おはようございます。 虎太郎さんの妻が出産するとき、生き死にの苦しみをしていました。 金光様からこの御教えを頂いて、安産ができるようになったとのことです。 「命がけと思って」というのが自ずから和賀心になっています。
信心をしても、なぜおかげがないのであろうかと思い、悔やんではならない。 たとえば、麦をまいて肥やしをしておいても、正月時分には肥やしをしないのといっこう変わらないが、彼岸時分になると、肥やしをしたのはずっと伸びてくる。 信心もそのとおりであるから、怠らずに、直(すぐ)い心でせよ。 金光教教典 492頁 河本虎太郎の伝え 3 おはようございます。 おかげは和賀心と裏表です。 和賀心が生まれるためには多少の時間がかかります。そのことを言っておられます。 祈る 学
信心をせよ。やがて、金神様と言われるようになるぞ。 金光教教典 491頁 国枝三五郎の伝え 14 おはようございます。 このように金光様が仰せになったことについて、国枝三五郎さんは 「信心しますとも、あなたは目にも見えない的をねらってお当てなさった。私はあなたという的があるからは信心します」と申しあげて信心し、 二十年後、乙島の金神様と言われるようになった、と記しておられます。 今日的に言うなら「あの人は金光様だ」と言われこととおなじです。 確かに、「金光
病気が治るのがよいか、治らないのがよいか。治る方がよいのであろう。治してもらいに参って来たのであるから、治るであろうかと思ってはならない。 今日からしだいに全快におもむくと思え。しだいしだいによくしてもらい、体が丈夫になってきさえすれば、年はとっても病気は治る。しだいによくなると思って信心せよ。 金光教教典 416頁 秋山甲の伝え 1 おはようございます。 甲(きのえ)さんの実母・平野登美さんは、10数年、血の道を患っていました。 明治11年、塩飽きよさんに連
私はかまわない。あれはみな、金神様がもらわれたのであるから、持って帰っても私はかまわない。 金光教教典 415頁 青山金右衛門の伝え 8 おはようございます。 「法者(祈祷者)が来て、お供え物などをことごとく持ち帰った」ことについてのお言葉だと記されています。 日柄方角を見ることが大切だと説く人たち(法者、祈祷者、山伏)は、教祖様が日柄方角は見なくてもよいと説くことに対して、「一介の百姓が」と怒りました。 教祖様のお広前に来て、御神前を荒らし、お供え物を持ち帰
行は無理によそへ行ってせんでも、わが家でできる。 金光教教典 415頁 青山金右衛門の伝え 6 おはようございます。 わが家でできるとは、わが家のあれこれ一切が修行の中身ということになります。 共に暮らす相手に一日一つ喜びが生まれるようにすると、それは立派な修行だと思います。 晴れたり曇ったり雨が降ったり、そしてまもなく雪が降ります。 お天気に文句を言わない、どんなお天気でもありがたく受ける稽古をすること。こういうことも修行になります。 * 31日か
いかに神信心していても、寿命のないものはしかたがないが、神様にもたれていればうろたえることはない。 金光教教典 415頁 青山金右衛門の伝え 5 おはようございます。 ある方が仕事に必要な資格試験を受けました。ところがその方は試験に通りませんでした。 その通知があった日、「落ちました。また来年、がんばります。勉強をする機会をありがとうございます」と言われました。 うろたえておられません。 応援してきたわたしが助かりました。来年は、大きな力
おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる。 金光教教典 414頁 青山金右衛門の伝え 3 おはようございます。 ある人と先覚の先生のお話です。 ある人「先生、大変です。大家さんが家賃の値上げを言ってきました」 先生「そうか。それはめでたい。赤飯を炊いて喜べ」 ある人「家賃が上がって何がめでたいのですが」 先生「それだけの支払いを神様ができるようにしてやる。その力を授けてやろうとしておられるのだ。だから
人間は勝手なものである。生まれる時には日柄の良し悪しも何も言わずに出てきておりながら、真ん中の時だけ何のかのと勝手なことを言って、死ぬ時には日柄も何も言わずに駆けっていってしまう。 金光教教典 411頁 青井サキの伝え 3 おはようございます。 日柄方角を守ると言うが、それは生きている途中だけのことで、生まれる時も死ぬ時も、日柄方角を選ぶことはできない。 人間とは勝手なものだなあ。 教祖様の詠嘆であると共に、だからこそ本当の生き方を伝えたいという願いでもあろ
信心すれば一から十までのことを願うがよい。いろはのいの字から、金光大神は教えてやる。十が十まで知れだしたら人に教えてやれ。 金光教教典 411頁 青井サキの伝え 1 おはようございます。 「一から十までのこと」が何を指すのか、わたしにはよく分かっておりませんが、十年間にわたり取り組んできた「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」は、信心のすべてが込められていると言われています。 今はこの「願い」を「一から十までのこと」として頂きたいと思います。 「願い」は次の
木を植えても、根が張らないのに花がつくと、実らずに散る。根が張ると、長く続いて大きい実がなる。 金光教教典 411頁 青井サキの伝え 1 おはようございます。 昨日頂いた御教えのあとに続く御言葉です。 手の上がり下がりよりも、大きい実=おかげを頂く方が大事だろう、そのためには根を張ること=本当の信心をすることだ、と教えてくださいます。 * 最近、ある先生のお話を読ませていただいて、そこにあったお話に肯くものがありました。 師匠が「信心が進んでくると拍手の
手みくじがいただけなくても、願うままにおかげさえ受けられれば、手みくじがいただけるのと同じことである。 金光教教典 411頁 青井サキの伝え 1 おはようございます。 「くじ」とは御神意を伺う方法のことです。「手みくじ」とは、合掌した手の上がり下がりで願いが成就するかどうか分かる、というものです。 青井サキさんは、この手みくじが頂けなかったようです。そのことをお伺いした時のお言葉が、この御教えです。 * わたし達は、願うままにおかげを頂きたいと思ってい
金光大神の道では、急におかげを受けるということもないが、罰も受けない。早くおかげを受けたければ、四国八十八か所を回ってみよ。早くおかげを受ける代わりに、早く罰も受ける。 金光教教典 411頁 相沢新造の伝え 4 おはようございます。 「おかげは和賀心にあり」とおっしゃいます。その和賀心は、一朝一夕にできるわけではありません。少しずつ少しずつです。コップに水道の水が一滴一滴溜まっていくようなものです。 一滴一滴ではあっても、時が経てば必ず水は溜まり、コップからあ
患っていると、医者にかかったり、祈祷をしたり、あそこへ行き、ここへ行きなどして、うろたえる。それで、病気は治っても、金をたくさん使うので、後がわずらう。 迷わずにじっくりじっくり信心しなさい。おかげがいただける。 金光教教典 410頁 相沢新造の伝え 3 おはようございます。 今も同じです。あちらのお医者さん、こちらのお医者さん、お医者さんが駄目ならサプリメント、民間療法、・・・。 たくさんのお金をかけて結局治らず、お金を使っただけになってしまいます。 耳鳴
信心をなさっても、何もかも捨ててとびこんでしまうような信心をしなさるな。こうして、麦飯の茶づけでも食べているような心持ちで信心しなさい。 節のあるところで、あわててのこぎりをひくと、のこぎりの歯が折れる。 金光教教典 410頁 相沢新造の伝え 2 おはようございます。 一心の信心というと、ともすれば、100% いえ 120%の集中力を発揮して神様に向かうイメージを持ってしまうかも知れません。あるいは、自分の楽しみはもとより、家族も仕事も打ち捨てて信心しようとす