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【書評】夏目漱石『それから』を読む。恋愛は社会階層の流動化に役立つ。
ロッシーです。
夏目漱石の『それから』を読みました。
『それから』は、前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)の中で私の一番のお気に入りです。
前半部分では、自分の意見やスタンスをはっきりと決めない主人公の代助が、後半部分になると自分のポジションを決め、そこからのラストシーンまでの疾走感。「静」と「動」のコントラストが読んでいて面白いです。
いうなれば、前半部分の代助はハムレットといってもよいでしょう。態度をはっきりさせず、フワフワした高等遊民なわけです。
そして、後半部分の代助はマクベスです。自分の態度を決め、滅びに向かって突っ走っていくのです。
もしかしたら、夏目漱石は、シェイクスピア文学の2作品を、『それから』で合体させようとしたのかもしれませんね。
あと、今回再読して気が付いたのですが、『それから』では階級闘争が大きなテーマになっていると感じました。
代助やその祖父や父は、いわゆるエスタブリッシュメントです。一方、それと対比される労働者階級が友人の平岡という位置づけです。
そんな二人が働くことについて話し合う場面があります。
代助:「つまり食うための職業は、誠実にゃ出来にくいという意味さ」
平岡:「僕の考えとはまるで反対だね。食うためだから、猛烈に働く気になるんだろう」
代助:「猛烈には働けるかもしれないが誠実には働きにくいよ。」
代助の言っていることは、労働者階級にとってみれば単なる言葉遊びでしかありません。実際に食うために働かなくてはならず、働かないという選択肢がそもそもないのですから。
そんな代助と平岡の考えは平行線のままです。しかし、代助が平岡の妻である三千代を現代風にいう「略奪愛」をした結果、代助は食うために働かなくてはならなくなります。また、代助の父の経営する事業も、平岡が隠し持っている記事ネタにより、将来的に傾く可能性がありそうです。つまり、代助に代表されるエスタブリッシュメント側は、平岡に代表される労働者階級の攻撃により崩壊させられるわけです。
これって、要するに労働革命です。その結果、ラストシーンで代助は「赤」いイメージ一色になります。赤といえば、社会主義、共産主義の象徴の色です。
その原因となったのは、三千代を平岡から略奪したことでしょう。労働者階級から、大切なもの(実際に大切にしていたかどうかはともかく)を奪った報いといえなくもありません。
しかし、だからといって、略奪愛はけしからん!とかいうつもりもありません。
むしろ、恋愛というものがあるからこそ、社会の階級というものは流動的になるのだと思うのです。
お金持ちが一般庶民と恋愛する。または一般庶民がお金持ちと恋愛する。そういうことがあるから、階級間の移動というものが起きるわけです。
ド貧乏の女性(or 男性)だって、お金持ちの男性(or 女性)と結婚すれば、一気にエスタブリッシュメントの仲間入りです。レアケースだとしても、可能性はあるわけです。
もし、恋愛というものがなければ、階級格差はおそらくずっと固定化されたままでしょう。お金持ちはお金持ち同士で結婚し続けるでしょうからね。
だから、マクロ的視点からすれば、代助のような人間が出てくることは、社会階層の流動化という面では非常に良いことなのだと私は思っています。
あと、さすが夏目漱石だな~と思ったのは、さきほど引用した代助のセリフです。
「猛烈には働けるかもしれないが誠実には働きにくいよ。」
当時であれば、「何をいってるんだ」と思われたかもしれません。しかし、現代社会ではこのセリフの重要性はさらに高まっていると思うのです。
今後テクノロジーがさらに進化し続ければ、ベーシックインカムが実現し、食うための労働から私達が解放される可能性はあるわけです。そうなれば、私達は「誠実に」働くことができるようになると思うのです。
食うために「ブルシットジョブ」をしないといけない社会から、自分が本当にしたいと思う仕事を誠実に行うことができる社会になるのかもしれません。そういう視点を当時すでに夏目漱石が持っていたことは本当に慧眼だと思います。
とにかく、『それから』は色々な読み方ができるので、毎回新しい発見があって面白いです。
また、いつか読み返そうと思います。まだ読んでいない方は、ぜひ一度は読んで欲しい作品です。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!