伊東玲(いとうあきら)の自己紹介おおまかバージョン9,200余文字:短縮版のもと:これでもまだ先送りがたくさん
こんにちは。『全日本「いとうあきら」の会』を立ち上げても会員数が相当になる「いとうあきら」と申します。子どもの頃に同じ学校の同学年にもいましたし、アパートに住んでいるときの下の階の方も同じ名前でした。ただし漢字に直すと「伊東玲」は珍しいと思います。姓の「伊東」も少ない上に名の「玲」はほとんど「美しい音」という意味だけの漢字です。本名です。
発信することが好きです
いきなり大学の准教授に招かれた
大学院を修了したときは映画監督になりたくて映画会社の内定ももらっていました。ところが恩師の勧めでほとんど準備もしてないのに受験した教員採用試験に合格してしまい小学校の教員になりました。ただし恩師や多くの先生方から「学校現場を見るのは必要なことだがあくまでも君は教育研究者になるのだから3年したら必ず大学院へ戻ってきなさい」と言われました。
でも実際に学校に行くと大学や大学院で学んだことは基礎でしかなくて、実際の子どもを相手に授業が成立しません。「3年したから戻れ」と連絡を受け取っても「まだ授業が成立していないのであと2年待ってください」と返事をし、これを繰り返して、気付いたら25年間、小学校教員でした。恩師を大変失望させてしまいました。
けれども学校現場で苦労したおかげで小学校の担任としての教科と、音楽教科の専門として授業のできる教師として県内外に名前が広がりました。初めて教員になったときから、あまりにも授業ができない自分にふがいなくて、毎年授業の研究をまとめるように自分に課していたのです。これは大学時代に専攻した実践的教育の歴史と関心を持って学んだ授業方法と授業分析がとても役に立ちました。
名古屋大学を卒業してわざわざ通信教育で小学校の免許を取って、毎年の授業研究や授業の成果としての希望する子どもらによる音楽の課外活動で全国的な大会にまで参加するようになったら、目立ちます。三重大学教育学部附属小学校に異動(転勤)させられました。担当は音楽教科ですが、毎日いろんな教科の授業研究をする上に、教育実習の大学生の指導もあります。まさに私にしてみれば「水を得た魚」状態でした。
ここまでに、また別の機会に紹介するような大きな出来事がいくつもあったのですが、結局、これもまた別の機会に説明するような理由で、しばらく教員として「休職」しなければならなくなりました。休んでみると最初はぐったりとしていてしばらくしてだんだん心身が軽くなるのを自覚しました。それで、元気になったので、恩師の方々の勧めもあり、40日ぐらいで11冊の教育関係の著作を書いて自費出版したらWEB書店の専門書に私の本が並びました。
そうしたら愛知県の私立大学から電話がかかり、「大学へ来てもらいたい」と言われました。あとから思えばいろんな事情もあったようです。ただ、実践経験と実践的業績、さらに文書や著作による研究論文のある者は、当時は珍しかったのでしょう。文部科学省の審査も合格で、小学校の教員がいきなり教員養成課程の教育学部の「准教授」として正規の大学教員になることになったのです。
もう東京の自宅に戻られていた恩師や、近くで子どもたちがお世話になっていた三重大の名誉教授の方などが、本当に大変喜んで下さいました。
自由に発信してはならんと言われたので辞めた
大学は俸給も良いし教員の個室も与えられます。それ以上に、学校現場で自分がしてきたことを授業で語ると、学生たちから「大変な好評」で面食らうほどでした。それに比べると、例えば、「指導要録」と「指導要領」と「指導案」の区別がついていない人が教授にいて驚きました。他にも同じようなことで、実はまだ文部科学省からその教科の正規の大学教員の資格を認めてもらってない人たちも「准教授」や「講師」などにたくさんいました。
さらには大学の中で、「助手」「助教」「非常勤講師」「常勤講師」「准教授」「教授」、これを「職階」と言いますが、というように階段を上ってきた人たちもたくさんいました。つまりは学校現場をほとんど知らないまま、大学で「教育研究」を長年続けて来た人もいたのです。だいたい大学の教員は大学が採用すれば誰でもなれます。けれども医者や看護師、そして教師などの国家資格のもとになる講義を担当できる人は、文科省がちゃんと認定しています。実際に教える先生はまだ資格のないAさんでも、単位として認められる成績を出すのは資格を持ったBさんということで、シラバスにお二人の名前が併記されている場合などはそうなります。
「妬みの対象になるからしばらくはくれぐれも大人しくしていなさい」
私を招いた学部長や上司に当たる教授からはくれぐれもそのように言われていましたが、どうも私はそれがピンと来てなくて、音楽以外の教科や専門の教育史やかなり学んだ授業分析などの資料や研究は、隠していなければなりませんでした。でも「音楽科教育法」「音楽科研究」「教材開発」「模擬授業」「初年次教育」などの授業を受け持って、1年生から4年生までを相手に授業をしていると、教員が持ち回りで見る授業感想に「この大学へ来て初めてまともな教育関係の授業を受けました」などと学生たちが私の授業について書きます。私は100人相手の大講義室でもマイクなしで授業をしていましたが、「これで学生全員が90分間席についているのは伊東先生の授業だけですよ」と学生に言われて、これまた信じられませんでした。
当然ながら2年目からそれらの影響が出ます。持ち回りの授業からは外されるし、学生たちにあからさまに私の悪口を言う教員も現れる。信じられないようなスキャンダルを私を嫌う教員がでっち上げて言いふらし、学科の中では全くの孤立状態。隣の学科の先生たちや大学の本部はそれを察していて、よく励ましてくれましたが、学年100名の学生のうちの三分の一が私のゼミを希望するようになってきた3年目はさらにひどいことになり、もう4年目は毎日のように他の教員との闘いのような日々でした。
そして学会や教育研究会やブログやあれこれで私が発言したり発信したりすることを、当時の学部長、学科長、学部事務長などに取り囲まれて3時間ぐらいにわたって「勝手な発信や辞めろ」と一人が3回ずつぐらい私に告げるのでした。他にも理由はあったので、これはまた別の機会に言うことにして、「自由に発信してはならない」とは、当時の学校で「学級通信」を校長や教頭が検閲するのと同じようなことで、しかも私としては別に誰かを中小誹謗したりでっち上げの研究を吹聴していた訳でもないので、到底納得できません。
「辞めます。お世話になりました」
もう次年度のシラバスができている頃のことでした。
それでその後から今まで何をしているか
最初は勢いだけよかったものの
自分はもともとどこかの組織の中でじっとできる体質ではなさそうだと考えました。それで、あれこれ自由に発信するために、とにかくあわてて会社を設立しました。「街角コンサートホール」「若手音楽家の紹介コンサート」「初心者の音楽レッスン」などを考えて株式会社として登記もして実際にやり始めようとしました。けれども一番やりたかったことがなかなかうまくいきません。それは「街角コンサートホール」でした。
今でこそ「ストリートピアノ」は世間に認知されています。でも当時はそのようなことは特にヨーロッパでは常識的でも日本ではまだまだ「騒音公害」みたいなものもあって音楽ができる場所は限られています。と言って音楽ホールなどは敷居も高い。それで音楽を演奏してもよいという条件の適当な大きさのテナントを借りました。このとき何故か2カ所借りてしまいました。そのため予算的な問題が発生して、結局一つは契約を打ち切りましたが既に払ったお金はもどりません。しかもお客様が集まりやすい場所の方を解約してしまったのです。またホールらしくするための改装費も理想的なものにするためには高額になるため、一部の専門的なことは業者に依頼して、あとは手作りでやりました。
その傍らで、また別の機会にお話ししますが、私の子どもたちは音楽的な才能をバイオリンやピアノの先生に認められていて、コンクールでの入賞も多数になり、私がこれまでにいろんな音楽活動で試して来たことを子どもたちにさせてみるとなかなかうまくやるので、これは先が楽しみだと相当に投資しました。周囲の知人友人も、子どもたちのその時点での様子や将来に対して、多くの者が「楽しみ」と期待し応援もしてくれました。それで私は。本当に幅広く、子どもらに表現する能力を伸ばす機会を作りました。
ところが私が経験的に、これはしばらくしたらうまく行くだろう、と考えているところに、親戚などから「子どもらを売り物にするとはいかがなものか」というような横やりが入り、活動がやりにくくなりました。子どもらが成長するにつれて費用もかかるようになり、とうとう中途半端なまま、長男だけが活路を見いだすというようなことになってしまいました。ここまでの間に、実は、「街角コンサートホール」も「若手演奏家の紹介コンサート」も疎かになり、細々と音楽レッスンをしたり、周囲の要望から私には抵抗のあった「塾」のようなことをしたりするようになりました。ただ「塾」は時代を先取りして「パソコンを使った勉強」という、今ではコロナ禍のせいもあって学校でもどこの塾でも当たり前になったことを、相当に早い時期からやり始めたのでした。当然ながら、なかなか周囲の理解を得られません。
「パソコンを使った勉強」はパソコンや教材などの費用が相当にかかります。それなりに生徒は集まったのですが、利益を出すほどにはならず、最終的には、借りていたパソコンも採用していた教材も費用を払うことができずに打ち切りにして、中古パソコンを少し導入して、実質は私が勉強を教えるという形になりました。そうなったときに、ふつうの塾では「息苦しい」という不登校の子どもたちが来るようになり、しばらくはそんなことをやっていました。
「学校教育の外に出てみると現実は厳しい」と学ぶことは多くありましたが、収益がなかなか出ないので、発信する余裕がありません。音楽活動も散漫としたものになり、依頼された原稿を書くのもほとんどボランティアのようなもので、実際には本末転倒で、組織の中にいて固定給をもらっていた時の方が、発信や活動する「ゆとりがあった」ということになってしまいました。それでも応援して下さる方々はいて、子どもらのレッスンなども続けられていましたが、実際にはなかなかしんどい状態で、次第に成長した子どもらも長男以外は以前のような柔軟な姿勢で音楽に取り組まなくなってしまいました。
学校現場に戻ったらコロナ禍に遭遇する
かつて仲の良かった同僚たちがあちこちで校長や教頭になっています。見るに見かねたのか、そのうちの一人が「もう一度あの歌声が聴きたい」と声をかけてくれたので、小学校の講師になり、音楽の授業を担当しました。とても新鮮で楽しい気分で子どもたちと授業を始めました。
「ワンチーム」という言葉とともにラグビーのワールドカップで日本が盛り上がっていました。さあ来年はオリンピックもあるし、何より2年目になるので、私の経験と実感では、どの学年も音楽学力は相当に高くなると期待できていました。そんなときに、インフルエンザの怖いのが流行し始めたというニュースが世界を駆け巡ります。コロナ禍が始まりました。
コロナ禍の学校を経験できたことは、これもまた貴重なことです。音楽の授業も工夫しました。既に組織的に取り組んで話題にもなりましたが、私は学校のパソコンの中に簡単な作曲ソフトが入っているのを見つけ、それを小学3年生と4年生に授業中に自由に使わせてみました。その地域の学校のパソコンを扱っている会社の人に尋ねたところ、「このアプリを使ってこのような授業をしている学校は他にはありません」とのことでした。友人の校長が最後の卒業式を迎えたときは、まだ卒業式で子どもたちが歌を歌うことはできませんでした。「ならば教師が歌おう」と校長が言い出して「旅立ちの日に」を卒業式の最後に教師が歌ったのは、私はとても感動的な経験でした。
そのあともその学校にしばらく残ってもらいたいとのことでしたので、パソコンを使った音楽授業の可能性をあれこれ試しました。発表する機会が得られずに残念でしたが、そのときの資料は今も持っています。
母が倒れて要介護認定されたことから支援の仕事をする
そしてその学校から自宅に近い学校の講師になったとき、母が骨肉腫で入院し、3カ月して退院してきたときは、介護が必要になっていてその手続きをみんな私がしました。そのために介護に関心を持ち、のちに、と言っても昨年のことですが、介護の初任者研修の資格も取りました。
母が介護施設にお世話になるようになって、私も別の介護施設でリハビリ支援をしたり、音楽レクレーションのお手伝いをしたり、母よりもさらに高齢の方々と接する機会を持ちました。歴史の好きな私は、高齢者の方々が昨日のことのようにお話しする子どもの頃のことや戦中戦後の様子など、生々しく、しかもそこをたくましく生き抜いてこられたことに、人間として生きる人生への尊厳を深く感じました。ただそのような介護施設での仕事の前に、私が交通事故に遭ってヘルニアになってしまっていたので、介護の仕事の中心であるあれこれの介助がほとんどできずに、なかなか仕事が続けられません。
一方では、障害を持つと言われている子どもたちの放課後等のデイサービスの仕事も、何カ所か経験してみましたが、これはこれで、長年子どもたちと接してきた私の感覚と、放課後等のデイサービスだけで子どもたちと接してきたスタッフとの感覚に、明らかな隔たりを感じて、精神的に続けられなくなってしまいます。これもまた別の機会に、具体的な提案なども含めて発信したいと思います。
ということで今は、母のいない実家や倉庫のようになったままのかつての塾のテナントや、あちこちの荷物が未整理のままになっている自宅の掃除片づけをしながら、こうして発信できるところまでやっとなんとか持ち直したところです。
これからどんな発信をnoteでするか
やりたいことは山ほどある
ここまでざっと自己紹介したつもりでも相当の量になってしまっています。しかもその途中で「また別の機会に」というように、いずれは詳しく説明すれば何かの役に立つと思われることがいくつもあります。
実際の私がやってきた音楽活動に関するもの
またあえてこの文面では紹介しませんでしたが、私は人生のほとんどを音楽活動をして過ごしてきました。その一つひとつは歴史的事実として記録しておく必要があるものがあるのは残念なことでもあります。というのもその多くが、たとえ学校の課外活動であっても、その学校のホームページなどを見ても「なかったことになっている」というものや、「実際と違ったことが語られている」ということがあちこちにあるからです。
学術的な意味合いのものや実際に役立つ教育関係もの
私の本来の専攻は教育史で、特に明治期に始められた学校制度の実際の様子を、私の学生時代はインターネットなどはなく、自分の足で歩き回ったり、文献や資料の中から芥子粒を拾うように探し当てたりしてきました。今後の教育史の研究者が、もしも何かの実例がないかと探したときに、ちゃんと見つけられるようにしなければいけません。
その関係では、明治時代に最初に音楽教師になった人と授業の様子から、戦後の音楽教育の土台を築いた人、それを実際に学校で実践できるようにした人などの業績の紹介も必要です。これらについては、私が発掘した人物や、直接に当人から話を聞いたものや、私の身近でそれをやりながらその実際については周囲の方々から具体的に教えてもらったことなど、私しか語り得ないものがあります。
また学校教育について、授業研究や改善の仕方、音楽の授業の仕方、学級経営の私の工夫、これからの展望、時代や社会の変化の中でも変えてはならないものなど、実際に私自身が日々努力して積み上げた成果や失敗を紹介することも必要だと考えています。
特に上のことで重要なことは、私自身が恩師の勧めのおかげで、実際に学校の教員となって子どもたちと授業や学校を創造する工夫をしたということです。附属学校の教員となったり、学会などへ参加したり、実際に大学の教員となったりして驚いたことは、学者や研究者は、余りにも特別な場面での出来事を一般化しているということです。例えば、大学にいる学者も研究論文を書かなければなりませんから、学校現場の教員に協力を依頼する。ご想像通りのことが起きます。学者は自分の研究の成果を出したいと考えるし、協力する現場の教員も児童生徒も、参観日のような特別な時間としての姿を見せることが多くなります。ひどい場合は、学校現場ではなく、自分の大学のゼミ学生の数名に試したものを小学校教育に適用できると力説する「学者」もいます。
そして恩師からの宿題となっている、早期教育に関する一例の紹介もしなければなりません。私の場合は、息子がその特異な才能を一定に評価されています。これは息子が自然に身につけたものではなく、私が意図的に身につけさせたものがほとんどです。その実例を記録することは大切だと思います。またこれに関しては、それなのに、他の各方面にいる天才的な著名人と、私の息子が異なる点については、冷静に「子育て」の観点からの分析も必要であると考えています。
音楽や歴史、文学などの文化についての話題提供に関するもの
学術的に研究をしたくても今からでは時間的に無理だと思われるものもあります。それで話題提供としました。
音楽教育で言えば、例えば「絶対音感」は、相当に多くの人が身につけていながら本人も周囲も気づいていない可能性があります。これはこれからや現在の研究とつながることで新たな展開が期待されます。それと同じように「音痴」なども、本人や周囲の誤解から生まれていたり、それを継続させられていたりする可能性があります。「音痴を直す」という言葉を聞くたびに、私は、学校で実際に出会ってきた1万人ほどの子どもたちに、そんな「音痴」などほとんど誰もいなかったという実際の経験があります。一方でリズムに関しては、生まれつき得手不得手はありそうだということも、実際の様子から話題提供できます。
さらに、唱歌や童謡について、あらためて見直してみると、歌詞や音楽に盛り込まれた作者の意図や時代背景が、予想以上に大きいこともあらためて発信したいと考えます。特に、私の場合は高齢者の方々と実際にいっしょに歌う機会を半年間、毎日持っていたことで、その楽曲だけでなく、その楽曲を当時の人々がどのように受け止めたり歌ったりしてきたか、ということまでわかってきました。わかりやすく言えば、介護施設などや動画サイトで作られている「高齢者向けの童謡唱歌」が、いかに現代人の「年寄りはこんなもんだろう」という決めつけによるものであるということへの警鐘を強く鳴らしたいのです。またある施設でたまたま遭遇したように、高齢者を「先導」して歌っているスタッフが「間違っている」「わかっていない」という恐るべき実態の改善もしなければなりません。
音楽について言えば、エリック・サティなどの作曲家について、また、長年実際にやってきたアマチュアの指揮法についてなどがあります。エリック・サティを私が大好きなことは、この記事の表紙絵と言いますか、見出し画像が「傘(parapluie)」であることから既にお察しがついていた方もいらっしゃるかも知れません。
歴史に関しては、「海の交通」や「室町時代の生活」、「江戸時代」や「明治時代」の建築や土木工事や交通手段など、明治期以降から敗戦までの様子、その後の歴史そのものへの関心の持ち方の変遷など、あるいは、まだ埋もれている幕末維新の動きや隠れキリシタンの明治になってからの配流地の様子など、これまでに相当に調べてきてまだまとめてないものがいくつもあります。
文学については坂口安吾については、かなりたくさんの試論ができます。また夏目漱石についても、私なりの考えがあります。その他、愛読してきた作家や作品は古今東西にたくさんあるので、多様な切り口で文学論も語りたい。
同じように画家や彫刻家についても、例えば葛飾北斎やカミーユ・クローデルについては相当に思索を重ねていますし、他の作家についても関心は高いです。
文化や科学や宗教などが意外な結びつきを見せるとき
これらについては、事実と事実を結びつけて新たな事実を発見する、とか、点と点を結んでいくと思わぬ結びつきが見えて来る、というもので、私が最も興奮を覚えるものです。その例を、有名なものから、私が発見したものまで、紹介しながら私なりの分析や研究を話題提供として発信したいと考えます。
創作関係
かつて私は映画監督になりたかった、と先の方で述べました。大学を辞めたあとに東京の小さな芸能事務所に所属していたこともあります。「このまま東京にいれば、近いうちに有名人になる」と言われたこともあります。今でもこの気持ちはどこかに持っています。
小学生の頃から物語を書いたり、劇の台本を書いたり、一時期は漫画を描いたりしていました。高校から大学時代は、文学仲間と同人雑誌を発行していました。
また音楽劇ということで、演奏者が衣装を着けて演奏するだけでなく、本格的にセリフを語り演技もする、というステージの台本を作り、演出も何回もしてきています。もちろんそのときの音楽の編曲や指揮も私がやります。これら、既に作ってそのまま本棚の奥や棚に埋もれている台本や録画を紹介します。そしてこれからもっと斬新なものを創作したいと考えています。
子どもときに一番なりたかったものは、小説家でした。子どものときだけでなく、学生になってからも、教員になってからも、そして今も。生きて来た現実に不思議な題材がいっぱいありますので、それらをもとに、あくまでも「創作」ということで小説もこれから発信したいと思います。
これからよろしくお願いします
どんどん発信していきたいと考えています
学術的なものや話題提供のもの。自伝風のものやエッセイ風のもの。そして創作。音楽に関するものには動画や音源を。図表の必要なものにはそれらも明示しながら。場合によっては書き手のキャッチフレーズ等を変えることもあるかも知れません。
原稿や講演などの依頼がありましたらお引き受けします
何かお役に立てることがあればご相談ください。また別の記事で詳細はお伝えしたいと思います。