パルプ・フィクション

King Gnuの「三文小説」を聴いた。

私は物心ついた頃から「ロック」と称される音楽が好きなもので、正直、最初は「今回はまぁ随分と「売れ線」を狙ってきたな」と思った。

「白日」が売れて、「どろん」や「飛行艇」がそこまでのヒットにならなかったことからだろう。この曲では、あの畝るようなギターもベースも鳴り響いていない。

しかし、私はそのMVから目を離せなかった。

初聴にも関わらず、その映像はその歌詞や旋律と共にすんなりと入ってきた。

そして私は、なんだか得体の知れない納得感を得た。

「この人生が譬え三文小説だとしても、投げ売ることはできない。」

その感覚は、かつて坂口安吾の「堕落論」を初めて読んだ時に似ていた。

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私は、どうせ生きるならば、「何か」になりたかった。

「誰かにとって価値のある存在、世の中に何かしらの影響を与えることのできる存在になる。」

そのぐらいの対価がなければ、人の一生というものは、それは、生き続けるにはあまりにも過酷過ぎはしないか?

何かになれないなら、こんなに苦しい思いをして、人生に喘ぎながら生きていく価値なんてどこにあるのだ?

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でも、私は何者にもなれていない。

それでも、今、なんの因果か生きている。

明日なんてものは、ただ単に「今日の続き」だ。それでも、それを何度も繰り返すうちに、少しづつ芽生えたもの、それが私をここまで生かしている。

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所詮、何者にもなれない自分の人生なんてものは「三文小説」なのだ。才能にも運にも恵まれなかった人間が、夢を諦めきれず書き散らかした原稿用紙の上だ。そんなゴミにも似たような、凡百の作家が手慰みに書いたような、そんな人生を歩んでいるのだ。

それでも、まだこの物語は終わっていない。

もしかしたら平凡よりももっと酷くて、孤独で、過酷で、どうにもならない人生なのに、まだ終わっていない。

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私は、筆をとらなければいけないのかも知れない。この物語を美しい終幕に導くために。





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