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2020年3月の記事一覧
短編小説 「13日に帰ります」
用件だけを送って文香はスマホを置いた。そのまま冷蔵庫まで歩いてビールを一本取り出す。
実家に帰るのは何時ぶりだろうかと思い起こす。
少しお節介な母親と寡黙な父が待っていたらどんなにいいだろうかと思う。ただ、待っているのは吝嗇な父と、静かに従う母と、ニートの兄なのだ。文香は高校を卒業すると、逃げるように地元を出てきた。兄が手に負えないと何度母から連絡を貰ったか。兄は物静かなので、そんなに手がかかると
短編小説 もうひと押し
セフレの女がいる。友達とセックスしてる。好きな人が身体だけ許してくれる。
言い方はともかくアイコは俺に心を許さない。
今すれ違った女達が、俺らを見てお似合いのカップルね、と言った。俺は満更でもない気分になる。そんな俺にアイコは必ず釘を刺す。
「カップルだって、笑っちゃう。ただのセフレなのに」
「…お前可愛げ無いなぁ」
「事実を言っただけでしょ、これから向かう場所は?」
「ラブホテル」
「よくできま
短編小説 コーヒーの味がする
バイト終わり、由紀恵さんと二人きりで公園にいた。ご飯に行こうと言っても、酒をおごると言ってもなんとなくノーと言われ結局公園でコーヒーを渡した。
それでも裕太は今日こそ上手くいくと確信があった。家庭ある人が(公園とはいえ)時間を取ってくれたのだ。
由紀恵さんは指輪を付けていない。金属アレルギー、洗い物で手が清潔を保てない、サイズが変わった。時々によって理由は変わったが指輪を付けていたくない、何かがあ
短編小説 気だるい女
奈津はコーヒーをいれようと思った。お湯を沸かしながらマグカップにインスタントのコーヒーを入れようとして、手を止めた。自分のために用意するのはやめようと思った。そのままその場に座り込んで、膝を抱えるようにした。何もかも疲れてしまったのだ。
特に思い当たるような事は何も無い。ただ、電車を一本見逃してそのまま反対行きの電車に乗ってしまうような気持ちがわかるような気がした。
スマホから通知音がする。
短編小説 産みの苦しみ
吉野は鍵盤から指を離すと大きな息をついた。締切を過ぎているのに曲が出来上がらないのである。
吉野は天から音符が降ってくる、という天才型ではなく規則正しい生活の中から絞り出てきたものの上澄みを掬いとる努力型の音楽家だった。
毎日仕上がりを待つクライアントから催促の電話がくる。こんなことは今まで経験がないので焦り、音符の羅列の最中にも気になり仕事は進まない。ぐしゃぐしゃと髪の毛を搔いてもバラバラの音符
短編小説 彼は今日、留守にします。
彼に同窓会のお知らせがくる時期がやってきた。ひとりぼっちが好きな私と違って彼には友達が多かった。LINEで幹事から連絡があってからの彼はとても優しい。
けれどその日帰って来ても明け方なのだと思うと、私の心は憂鬱だった。ひとり好きなのに、寂しがり屋。矛盾した性格を持て余していた。
当日オシャレをした彼は行ってきます、と玄関先で私に軽くキスをした。思わず行かないで、と縋ってしまいそうになったがこ
短編小説 造花のステッキ
あと一駅で最寄りだと、気付いた時には歩き始めていた。
見慣れた風景だがいつもと違う場所で梨花は少し気後れしたが既に電車は行ってしまった。改札を抜けると自販機でジャスミンティーを買った。少し歩けば公園がある。
静かな公園のベンチに座って、梨花はため息をついた。職場での同僚のキツい言葉、電話で話した母親の身を案じる体の責める声、空いていた電車で梨花の前に立つ知らないおじさん。最悪な気分だった。顔