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短編小説1000字

100
大体1000字くらいの短編小説です
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記事一覧

短編小説 他人の女

 西陽が車の中に差し込み、藍はサンバイザーを下ろした。赤信号の間ぼんやりと横断歩道を歩く親子連れを見ている。

「結婚したの」と連絡を寄越した元カノは、別に幸せそうじゃなかった。懐かしいね、としおらしく切り出せばランチの誘いにホイホイ乗ってきた。

 後ろの車のクラクションが鳴る。藍は車を発進させると舌打ちをした。景色の流れる速度は遅かったが無用にアクセルを踏んだりはしない。

 シャンパンをグラ

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短編小説 マッチの男

 随分と肩身が狭くなってしまったが、良樹は喫煙者だった。子連れの母達が生活圏のトイレの場所を把握しているように喫煙できるスポットを良樹は知っていた。

 この小さな公園に隣接するコンビニには、細長い灰皿が置いてある事は知っていた。ただ、いつ撤去されたのかは知らなかった。
「まいったな」
 この辺りの吸える場所はあとは個人経営の喫茶店だけでそこのマスターは話好きなのだ。良樹が煙草を吸いたい時は、大体

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短編小説 運命の人

 鼻の大きな人だった。鼻の左横にはおできのような大きなほくろもあった。奈津子は卓司の鼻から目が離せなかった。
 じっと見ているのが失礼な事だとわかっている。だが駄目だと思えば思うほど、卓司の鼻が気になる。大きな鼻が好みな訳ではない。ただ、顔の真ん中で主張する鼻が奈津子の心を掴んだのは確かだった。
 卓司は微笑んだまま、スープを飲み、サラダを食べ、肉を咀嚼し、時々他愛ない会話を奈津子に振った。奈津子

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短編小説 結婚適齢期

 アニサキスを見たのは初めてだった。切り身の鰤に塩を振る時に気がついた。キッチンペーパーを一枚取りアニサキスを引き出す。節のないミミズのようなそれを取り除き、手順通りに塩を振る。行洋は無の境地でそれを魚焼きグリルの中に置いた。火をつけると次第に鰤の焼ける良い香りが立ち上ってくる。しかし食べる時にアニサキスの事を忘れられるだろうか。

 行洋が自炊を始めたのは不摂生が祟り健康診断でCを貰った為だった

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短編小説 デビュー

 今日もチケットは売れない。タクミはあと二十枚ほどある自分のライブのチケットを眺めながら短く息を吐いた。
 売れる人には売ってしまった後である。初めは付き合いで買ってくれる人もいてなんとか捌けた枚数だが、毎回となると厳しいのである。タクミは月一でライブをしている。
 弾き語りのアコースティックなライブである。いつかはバンドを組みたいが、まだいい出会いがない。何曲かはカバーをやるがオリジナルで勝負し

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短編小説 愛を教えなかった女

 心は目の前にいる愛すべき汚れた男を睨みつけた。鳴海は首を横に曲げ遠くをぼんやりと眺めている。反省しているようには見えなかった。ただ、この嫌な空気が流れている瞬間をやり過ごしているように見えた。
「言い訳くらい、してよ」
 心はやっとの事で声を絞り出したが鳴海はどこか他人事だった。
「言い訳、しないよ。浮気というか……」
「向こうが本気だってこと?」
「いや……何というか。みんな同じというか」

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短編小説 「何もしなくていいから」

 あずさはくたくただった。ここのところイレギュラーな仕事が入り、メールをやりとりしたり、会議をしたりして夕方には全身が浮腫んでいると分かるくらい疲れていた。
 家に着いたらまず寝そべろうと思っていた。
「ただいま……」
 パンプスを脱ぎ、玄関に座り込む。あずさは疲れていた。出迎えの陽二の顔を見ることも出来ずにいた。陽二はあずさの隣に座るとそのまま胸に手を当ててきた。
「え?」
 あずさのシャツのボ

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短編小説 頷く女

 牧田さんが「そうに違いない」と言うのでハルミは頷いた。給湯室で他人と出会ってしまうというのはそういう事である。緑茶を淹れる仕草をしながら、相手の愚痴やら悪口やら弱音やらを聞く。ハルミに出来るのは頷くだけである。
「じゃあね」と牧田が言ったのでハルミは緑茶の缶を戻し、インスタントカフェオレの小さな袋を取り出した。ハルミは甘いものが好物である。袋から粉をマグカップに入れてポットからお湯を注ぐとインス

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短編小説 FMから

  雨は強くなり、サヤカは窓の外を眺めるとため息をついた。この後サヤカは郵便局に行かねばならず、傘は折りたたみの小さな日傘兼用のものしかない。
 営業の者が車に乗せてくれないかと考えたがあいにくみな出払ってしまっている。
 サヤカは覚悟を決めると郵便物を手に席を立った。

 あの日もこんなふうに土砂降りの雨だった。赤いスポーツカーの中で三周した、ゲームのような電子音を繰り返す音楽にサヤカは辟易

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短編小説 パーティの女

 あの坂を下り、三つめの交差点を左に折れた所に綾乃の家はあった。駅からは二十分かかるがコンビニはある。ファミレスに弁当屋にファストフード、イタリアンにはテイクアウトもある。スーパーは無いので自炊しようと思わなければ割といい物件だ。
 涼介が綾乃の家に住み始めた時、真っ先にスーパーの位置を聞いたのを思い出したのだ。涼介は豪快な趣味の料理ではなく、母親が実家で作っていたような料理をする。
 毎日はパー

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短編小説 海が、光る

 渚は走った。海沿いの歩道は潮の香りがして半袖の腕を舐めるように風が吹く。今日、決まった。夏休みの展覧会に渚の絵が出品される。この嬉しさを隠せなかった。一番に伝えたい!病院に早く着きたかった。
「なぎさくーん、待ってー」
 後ろから由奈の声が聞こえる。今日は一緒に帰らないって言ったはずだ。のんびりした声が息を切らしてついてくる。渚は舌打ちすると立ち止まり、由奈が追いつくのを待った。
「なんだよ、待

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短編小説 初めての子供

 美雨は可愛い。眠っている時のふわふわとした髪の毛もそうだし、舌足らずで正悟を呼ぶのも可愛い。少し重くなってきたが、抱えられないというほどではない。むっちりとした腕、すべすべの足、幼児特有の頬の膨らみ。
 ただ、好きなのかと問われれば首を傾げざるを得ない。正悟は大きな声が嫌いで、美雨は泣くしかできないのだ。
 この一点だけで、全てが台無しになるほど美雨の泣き声は大きい。しかも幼児とはいえ女なのだ。

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短編小説 秘密のYouTube

 スコアブックという本を初めて見た。若葉は圭祐の差し出したそれをパラパラとめくってみる。音符や数字、アルファベットなどが所狭しと書いてあり若葉はため息をついた。
「何が書いてあるのか、全然わかんない」
「初めはそうだよ、みんな」
 俺もそうだった、と圭祐は言った。ただの譜面だと呟いて若葉からスコアブックを受け取る。圭祐はYouTubeにギターを弾く動画をこっそり上げている。
 圭祐の家族以外でそれ

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短編小説 棘

 何も作る気になれなくて、会社の帰りにモスバーガーを買って帰った。今日橘さんは来ない。一人の夕食だった。
 優美は思った。橘さんは今、家族団らんというやつをしているのだろうなと。子供の年齢は教えて貰えない。ただ、男の子と女の子が一人づつ。手のかかる時期は終わって受験などを気にする辺りのはずだ。

 橘さんと付き合うようになって、優美は不倫する女の話を敏感に感じ取るようになっていた。テレビドラマ

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