短編小説 産みの苦しみ
吉野は鍵盤から指を離すと大きな息をついた。締切を過ぎているのに曲が出来上がらないのである。
吉野は天から音符が降ってくる、という天才型ではなく規則正しい生活の中から絞り出てきたものの上澄みを掬いとる努力型の音楽家だった。
毎日仕上がりを待つクライアントから催促の電話がくる。こんなことは今まで経験がないので焦り、音符の羅列の最中にも気になり仕事は進まない。ぐしゃぐしゃと髪の毛を搔いてもバラバラの音符は纏まりそうにない。吉野は休憩をとることにした。
三か月前、吉野は恋人の氷見から別れを切り出されている。理由は「結婚したいので別れたい」だった。コーヒーをいれながら吉野はため息をつく。氷見とは生活の匂いのしないデートをしていた。
例えば美術館に行って、前衛作家の彫刻を見たりした時は決まって二人でどこから切り取れば漢字に見え得るかなどという話をした。カフェに入って内容の想像が可能なメニューを注文した方が奢った。
「私は音楽家ではない平凡なOLだし」氷見は言った。想像力をそこまで働かせながら生きていく必要はないと気づいたのだと。
吉野はコーヒーを飲みながら俺もカップラーメンを食うのだし、洗濯をしながら鼻歌を歌うということを隠したがっていた事に気がついた。
マグカップをテーブルに置くと、一度伸びをした。
喋り言葉と同じテンポにすると上手くいく、というスランプの抜け方を心得ていた。これは経験則である。
鍵盤を叩きながら恋人に振られて悲壮な男を演じた。力強すぎてこれではポップな感じが台無しである。ボツ。
角屋の出前をとりたいな、と心の中で念じながら優しく鍵盤をタッチした。角屋とは録音スタジオの近くにある定食屋である。連符の並びが上手くいったので譜面に書き留める。
氷見が頭をよぎる。もっと大事にしてあげられたような気がする。しかし吉野は最善を尽くしたと自分を慰める。モヤモヤするまま、神経を研ぎ澄ませる。音を並べる。パズルのように出来上がったものからはめ込んでゆく。頭を搔く。鍵盤を叩く。今、吉野は戦っていた。文字通り見えないもの全てと。
再び口をつけたコーヒーはすっかり冷めていて、吉野はコーヒーをいれなおす。手を加えたいところはあるが、それをやっていてはキリがない。話し合いながら強引に直していくしかなかった。
吉野は氷見を思い出す。別れた人を思い出すのは女々しいと思いながらも、捨てるにはまだ早い思い出であり傷だった。
しばらくラブソングは作れない。そんな気がしたが仕事を選べるか?と吉野は自問した。